ニンニクを植えるのには儀式が有りました。それは、まず前日か、前々日に水に浸して置くのです。そして、ニンニクの玉の外皮の固いやつ(水で柔らかく)を剥ぎ取り、丸裸にし、出来れば冷蔵庫に入れて冷たくしてから取り出して植えるのです。冷たい冷蔵庫から、暖かい土の中に入ると裸の玉は喜んで芽を出そうとしだします。私の場合は、この数年間それをせずにじかに玉を植えていましたので・・・明らかに、となりのニンニクの発芽・成長との間に差があり「なんでや?」「肥料か?」・・・不思議に思っていたところです。「人間」は、賢いですから「年々学習した経験」と云う皮を重ね着さして、失敗の無しないように、さながら「タマネギがごとく」なんじゅうにも学習経験と云う「カラ・皮を着せ重ね」着しているのです。何を云いたいのかと云うと、カラ・皮(学習・経験・思い込み)を剥いでしまって、素っ裸になれば「何が正義か」が解ると云う事なんです。ヒツコイですが、大王製紙の「我が身大切」の幹部達の「世渡り術で」の大失敗です。経営陣から外される!収入がへる!・・・・と云う、「恐怖の皮の重ね着」であって「皆で渡れば・・・」怖くない、でしたでしょう。この思いをさせ続けた「後継オーナー」一族にも大きな責任がある事は解っています。しかしながら、「役員会」と云うものは、「一対一での恐怖」では無くて、「役員大勢」の前ですから怖くても、怖くても、「物は云えた」はずなんです。しかも、大王製紙は東証一部の上場会社です。正確に言うと、この会社は公の物であって、決して最高顧問だった井川高雄氏の私物では無いのです。納得がいきませんです。写真は,クエと云う魚で白身で淡白、美味しい魚です。特に冬場の高知では最高級品です。薄造りも美味だし、クエ鍋が美味しい。
大王製紙故伊勢吉の次の社長には元最高顧問だった長男の高雄氏が居ました。高雄氏は伊勢吉と共に仕入れ先や、得意先を周りながら、父親の相手への言葉の使い方や、仕事の仕方や、行動、そして薬味の使い方などを勉強しました。所謂、親父の背中を見て育ったのです。ですから、仕事の厳しさは、伊勢吉以上でした。必然的に、その分「自分自身にも厳しかった」のです。彼の社長時代に何度か酒席を一緒にする機会がありましたが、彼は座敷の首座に座る事をせず、スタッフとともに末座に近い位置に座り、芸子に任せず「自分の手で手近かの客から」上座の客へと頭を下げて順番に酒を次いで回っていました。決して、私は大王の社長だ!私を見てくれ・・・と、云う雰囲気は見せずに、お世話になっていますとの姿勢を崩さなかったのです。毎日の仕事では、その日の全社・各部署の出来事をその日の内に把握していました。私の懇意だった支店長もなん時に社長から報告を求められても答えを出せるように終業時間過ぎても・・・東京本社から電話がかかるまで、支店の椅子に座り続けて待っていました。つまり、部長、課長も支店長に社長からの困った問い合わせが有った場合の答えを云うがため、彼ら部課長らも退社出来ませんでした。ですから、彼らと食事できるには午後9時以降になったものです。(大手2大メーカーのお偉方さん達は、午後5時半近くには北の新地当たりか、どこかでご馳走を頂いている時間・・・)大きな規模の代理店は皆2大メーカー資本の息がかかっていたし、大王の製品を「親身になって」販売してくれる紙の代理店は無かったのです。やもうえず、自分で販路を開拓し、自分で販売をしながら2大メーカーに挑戦する必要が有ったのです。それは、想像以上にきつかったかと思います。今回の事件で云うならば、伊勢吉には高雄と云う、仕事を熟知してサポートしてくれる「筆頭家老」が居て、賛成意見も、反対意見も出してくれたのですが、高雄氏に対しての三代目は東京大学出身ですが、頭は良くても修羅場を知らず、赤坊の時から「社長もどき」だった若武者には同年輩の参謀も「家老職」も居なく、職を懸け、命がけで諌めてくれる幹部が一人も居なかったのです。不幸にも3代目の孫は真の友も居ない裸の王様だったのです。(だから、一人ぽっちで出来る「賭博ゲーム」に走った?)写真は、我が家・土佐田舎流の「皿鉢料理」です。
悲しい事になりました。大王製紙は、創業者一族を経営陣から追放しました。大王製紙の創業者「故・井川伊勢吉」さんは、苦労人でしたが「後」がいけません・・・3代目で失敗しました。大親父も、泣くに泣けないです。私の血気盛んな時の事です、大王製紙には大変お世話になりました。その頃の役員さん達とは良く働き、良く遊び、良く語らいました。彼らは云いました・・・「出張して三島本社に帰ると、真夜中であっても、伊勢吉社長の実家に報告に上がるのが慣例。布団の中で伊勢吉さんが報告を聞き、寝間のそばにおられる大奥さんが夜食を用意してくれた。」・・・それは、朝・情報を聞き、朝考えて対策を「指示」すれば、それは幾ら早くても昼前か、昼からになってしまう。今夜中に情報が入れば夜中に考えて「早朝指示」が出来る。即ち、競合他社に対して打つ手が早い!・・・と云っていました。その為の、深夜の報告だったのです。又、伊勢吉さんは、現場が好きでした、機械の音が「銭の音に聞こえる」と云っていました。工場の中で出会うスタッフには必ず声をかけていたそうです。声をかけられる方は大変、現場の「数字」、機械スピードにしても、生産量にしてもとにかく数字で返事しないとどやされるのです。返事した数字が間違っていてもそれは良い・・・後で、実はこうこうですと云えば、一言「そうか。」で、終わったのです。つまり、「現況の返事」が即座に出来れば、こいつは良く「把握」出来てると、云う評定でした。出来る人を、出来る立場で使う為の「人事は強烈」でした。でも、最後の最後まで、面倒見は良かったです。本線で頑張った役職者達は会社退職後、必ず、必ずです!系列会社の役員に取り立てて、65過ぎ近くまで面倒を見ました。ですから、彼らは、せい一杯の働きを惜しまなかったのです。写真は、元の墓近辺の柿の木です。今年は、表作です。
日本で作って海外で販売している会社の代表役「任天堂」は、円高・為替差損で「524億円もの欠損」を出します(販売も不振)。必然的に2012年3月の決算は、予測・200億円の黒字から、ー200億円となり創立以来「初の赤字決算」になるそうです。「海外生産」で比率の一番大きいのが「デジタルカメラ部門」、約90%が海外生産です。ニコンは90%、ソニーは75%、建設機械のコマツは、海外で作って海外で売る率が85%、赤字で人員整理した時が1800人くらいだったのですが、現在の国内従業員は2100人を軽く超しています。海外生産では、日産は70%、クボタは50%、ニプロは30%から60%に引き上げるようです。今や、自動車メーカー全体では、56%が海外生産です。で・・・、空洞化、空洞化と騒いでいますが、此れは、島国で有るが故の閉鎖的で、自己防衛願望の強い日本人の国民性です。守って稼げる会社?守って勝てるスポーツ?は有りません・・・「守ったら」コテンパーにやられますよ。それでも、今とか、明日・・・「やられる」のが怖い??日本は海外生産がやっと14%から、18%ほどになってきましたが、例えば、輸出大国のドイツでは海外生産は以前から、30%を超しています。アメリカでも28%が海外生産なんです。海外で稼ぐ「商社」の「三菱商事」の円高での決算は、当期4500億円の黒字決算です。為替差損は25億円ですが、資源輸入の稼ぎで問題なしとの事です、さらに、「手元資金」では1兆3000億円もの金が用意できているのです。凄いですね。写真のクモの糸を海外ネットワークにたとえました。
日本のGDPは5兆4千億ドル強ですが、日本をのぞいたアジアの国のGDPは、10兆4千億ドル強です。洪水に見舞われているタイ国の人口は6,600万人で、GDPは日本の10分の一、インドネシアが人口は2億4千万人でGDPは9千億ドルくらい、だとすると、普通に考えれば、インドネシアの方に進出するのが良さそうに思えますが?政情不安や、対日感情などで取りあえずはタイ国になるようです。洪水被害の日本企業が460社と聞いていますが、タイに進出してる日本企業は7000社も有るようです。高知県からタイに工場を持っているある会社は、進出が遅くインフラの良いところは無くて、北部の小高い丘だったそうで助かっています。何が不幸か、何が幸せか解りませんね。私の大阪の友人も、タイで手透き和紙を漉かし輸入して売っています。どうなったでしょうか、ここも低い土地です。観光でアユタヤに行ったときもそうですが、あのアユタヤ大国の遺跡も、下の土台は水没しているそうです。確かに、バンコックからアユタヤまでの自動車道は、ただっぴろい大平地地帯でしたね。山や丘は360度、見えなかったような記憶です。写真は、庭のクモの巣です。獲物が掛かるまで、ただ、ただじっと我慢の子・・・この辛抱強さ!私には不可能です。