tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

柳本は、感動がいっぱい!

2010年04月11日 | 古社寺を歩こう会
昨日(4/10)、第5回古社寺を歩こう会「柳本は、魅力がいっぱい!」を開催した。最終的に51名ものご参加をいただき、盛会裡にお開きとなった。同町のスタッフの方などを加えると60人にのぼる大イベントだった。

当日の模様が、今朝(4/11)の奈良新聞に紹介されている。見出しは《黒塚古墳の魅力実感 天理・柳本を散策 古社寺を歩こう会》。《県内の名所旧跡を巡る「古社寺を歩こう会」(西川浩司代表)は10日、天理市柳本町内を散策した。会員ら60人は、春らんまんの中、同町内の黒塚古墳や専行院などを巡った》。



《この日、山の辺の道ボランティアガイドの原田敢(すすむ)さん(74)が町内を案内》《柳本もてなしのまちづくり会の永田禎一さん(74)は「纏向遺跡の発掘もあり、柳本を訪れる観光客が増えている。町の魅力を感じてもらえれば」と話していた》。

当日は午前10時、JR柳本駅前に集合し、開会式。歩こう会の西川さん、ガイドの原田さん、まちづくり会会長の北村さんがご挨拶。開会式には、前回の歩こう会でお世話になった今井町町並み保存会・副会長の若林稔さんも飛び入り参加、来月15・16日の「今井町並み散歩」を紹介された。
※第15回今井町並み散歩
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/417404da2d821814cd9ee286619c267d

1.黒塚古墳と展示館
開会式のあとは一路、黒塚古墳へ。Wikipedia「黒塚古墳」によると、この古墳は《1997 年(平成9年)から翌年にかけて奈良県立橿原考古学研究所が行った第3次発掘調査で、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見された》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3

《棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に刀1・剣1をおき、棺外に東壁側 15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。刀剣類や鉄鏃・小札(こざね)・用途不明の鉄製品などを配置してあった。玉類や腕装飾品類は出ていない》。



《後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、内法長約8.3メートル、北小口幅0.9メートル、高さ約1.7メートルで、二上山麓の春日山と芝山の板石を持ち送りに積んで合掌造状の天井を作り出している。石室内では、粘土棺床が設けられ、断面半円形の全長1メートル以上の刳抜式木棺が納められている》。



《木棺には中央部の長さ2.8メートルの範囲のみ水銀朱を施し、両端はベンガラの赤色で塗られていた模様である。水銀朱のところに安置されていたものと考えられている。なおこの縦穴石室は、ほぼ真北を向いており、被葬者の頭も真北に向けられていたことは推定できる。この真北は単なる偶然ではなく、ヤマト王権の中に被葬者の頭を真北に向けて埋葬する風習があったらしいと考えられている》。



《古墳は天理市によって整備が行われ、柳本公園となっているほか、古墳に隣接して竪穴式石室の実物大模型などを展示する「天理市立黒塚古墳展示館」が設けられている。平成13 年(2001 年)1月29日国の史跡に指定された。戦国時代には古墳に柳本城を築城、江戸時代織田家が城跡に柳本陣屋を構築し柳本藩藩庁とした》。

原田さんによると「三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から贈られたとされる「卑弥呼の鏡」と呼ばれるもので、大和の中心部で見つかったのは初めてであるだけに、邪馬台国論争を左右する重要な手がかりになるものとして、注目を集めている」。展示館は「昨年、TVドラマ『鹿男あをによし』のロケ地になったため来館者が急増した」。

2.専行院(せんぎょういん)
このお寺を訪ねたのは、初めてだ。天理市のHPによると《柳本は、慶長5年(1600)織田信長の弟で茶人としても知られた織田有楽斎(うらくさい)の知行地となり、さらに元和元年(1615)有楽斎の五男尚長(ひさなが)が入府して、柳本織田藩の祖となった。柳本織田氏の菩提寺である専行院には、有楽斎・尚長をはじめ歴代藩主の墓が残っている》。
http://www.city.tenri.nara.jp/kanko/walk/jyokaido/course02.html



境内には有楽斎の墓碑があった。新築されたばかりの本堂にも上げていただき、有楽斎の位牌を拝観させていただいた。帰りにはご住職から、珍しい「知恩院のお茶」(500mlペットボトル)をいただいた。渋みがなくてさっぱりした緑茶で、とても美味しい。
http://www.chion-in.or.jp/weblog/onki/2008/08/post_28.html

3.伊射奈岐(いざなぎ)神社と天神山古墳
Wikipedia「伊射奈岐神社」によると《楊本天神、楊本天満宮と称し、かつては南東の山田垣内にあったといわれる。文明年間には現在地に鎮座し、楊本の総鎮守とされていた》《天文24年8月29日(1555年9 月24日)には後奈良天皇が綸旨を下し、8月だった神事を9月に定めるとともに、柳原淳光に皇室再興を祈らせた。江戸時代には柳本藩主織田氏の庇護を受け、柳本藩社と呼ばれた》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%B0%84%E5%A5%88%E5%B2%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E5%A4%A9%E7%90%86%E5%B8%82%29



天神山古墳(伊射奈岐神社境内古墳)は、Wikipedia「大和天神山古墳」によると《行燈山古墳の前方部の西方に、北向きの前方後円墳が本古墳である。1960 年(昭和35年)に県道拡張工事で後円部の一部が削られたのを機会に緊急発掘調査が行われた》《後円部のほぼ中央に長さ6.1メートルの竪穴式石室が検出された。石室の中央部には、現存の長さ2.6メートルの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切って、内法1×0.5メートルの木櫃状になっている》。


県道拡幅でぶった切られた天神山古墳。切断面に石垣が組まれている

《石室の内部には、一見木棺のようであるが細部を検討すると木櫃(もくひつ)とした方がよい大きな木製容器が置かれて、約4キロの朱が納められていた》《木櫃の中央部が丹念に調査されたが、遺骸を埋葬していた形跡を認めることが出来なかった》。原田氏は、「行燈山古墳(崇神陵)の陪塚(ばいちょう)とされています」「近年には幼児を埋葬した古墳の可能性も推定されています」と話された。

4.行燈山古墳(崇神陵・山辺道勾岡上陵)
Wikipedia「崇神天皇」によると《現代の日本の学術上、実在の可能性がある程度見込める初めての天皇である》《諡号(御肇國天皇[はつくにしらすすめらみこと])から、崇神天皇をもって初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある》。



行燈山古墳は、江戸時代末(文久年間)に周辺の改修が行われ、現在の周濠が築かれた。Wikipedia「行燈山古墳」には《三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。その政治勢力は、三輪王朝とか初瀬王朝と呼ばれている。初期ヤマト政権の大王陵である》とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%87%88%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

5.長岳寺拝観と昼食休憩
お午に長岳寺に到着した。お寺のHPによると《長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹であり、盛時には塔中48ヶ坊、衆徒300余名を数えました。以来、幾多の栄枯盛衰を重ねながらも、1180余年間連綿と法燈を守り続け今日に至っています。千古の歴史を経て文化財も多く、重要文化財としては仏像5体、建造物4棟があります》。なお淳和天皇は桓武天皇の子で、平城天皇や嵯峨天皇とは兄弟。妹の伊都内親王は、在原業平の母である。
http://www.chogakuji.or.jp/index.html



《大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと我が国最古の美しい鐘楼門につきます。 12,000坪の広くて静かな境内には四季折々の花の香りが漂い、いにしえの趣と心の安らぎを求め、多くの参拝者があとを断たない花と文化財の寺です》。



本堂で、ユーモアたっぷりのご住職のお話を拝聴したあと、お待ちかねの昼食。築400年の書院でいただいた。お寺特製のにゅうめん(温かい三輪そうめん)と、柿の葉ずしヤマトの寿司弁当がセットされた豪華版(1575円)で、すっかりお腹がいっぱいになった。



6.五智堂(長岳寺の飛び地)
お寺のHPによると《当寺西方約1km の飛び地境内にあり、その形から傘堂あるいは眞面堂とも呼ばれます。真ん中に太い心柱がありこれによって建物のほとんどの重量が支えられています。心柱上部に四佛の梵字額があり全体で五智如来をあらわしています》。



7.迎蓮寺(光蓮寺)跡
ここも初めて訪れた。明治29年に火事で焼け、わずかに毘沙門堂(毘沙門天を安置)だけが残っている。同寺の石仏写真向かって左端が僧・善教作(南北朝時代の貞治3年=1634年)と伝える地蔵石仏。右端が建治2年(1276年)の銘文の入った阿弥陀石仏(石棺材を使用)。



8.柳本飛行場(大和海軍航空隊 大和基地)跡
ここは以前から行きたかった場所であるが、だだっ広い田畑のまん中にあるとは聞いていたが、どこをどう行くのか、よく分からなかった。今回、少し場所が離れているのに、わざわざお連れいただいた。炎天下を片道15分ほど歩いたので、ご参加者にはお気の毒ではあったが、歩いた甲斐は十分あった。


防空壕跡


こちらは通信施設の跡とも

原田さんによると「戦局が悪化し始めた1943年(昭和18年)頃より、来るべき本土決戦に備えて、連合艦隊壊滅後の全海軍の指揮をする海軍総隊司令部を東京の日吉台から移設するために『海軍総隊司令部 大和基地』として建設が開始されたそうです」「主滑走路を含めて4本の滑走路を持つ一大基地となるはずでしたが、完成を迎える前に終戦となりました」。


周囲には4本の滑走路があった。零戦や特攻機も飛び立ったという

飛行場跡からJR柳本駅前に戻り、閉会式。原田さんたちガイドさんや長岳寺ご住職の行き届いたご説明や、まちづくり会の北村さん、永田さんのサポート、町の人たちのご協力で、とても楽しい会となった。天候にも恵まれたので、真っ赤に日焼けされた参加者もいた。





閉会式のあとは天理に移動し、天理観光ホテルで希望者による懇親会(打ち上げ)を開催した。席上、早くも次回歩こう会の質問をいただいたので、「次は初秋の頃、御所市あたりを考えています」とお話しした。しかし大人数で歩くのは大変なので、次回以降は「先着30名」ほどに絞らせていただこうと思っている。当ブログで告知を見かけられたら、即刻お申し込みいただきたい。





当日の模様が、「古社寺を歩こう会」のアイドル・銀とき子さんのブログ「独語力」にアップされている。《「柳本百選」という小冊子をいただきました。この本には柳本の見所を紹介されています。古墳・寺社・柳本藩・町屋・石仏・歌碑・景観など、カラー写真つきで細やかに紹介されていて、とても充実しています》《万歩計を見たら、ちょうど10km歩いていました。頑張った~~~!寺社巡りをしていたら10kmくらいすぐなんですけどね、お天気良過ぎて汗だくになりました》《柳本、サイコーです!!》
http://cherry.blog.eonet.jp/tokiko/2010/04/post-b64d.html



今回、お世話になりました柳本もてなしのまちづくり会の皆様、山の辺の道ボランティアガイドの皆様、有り難うございました。当ブログがキッカケになって、沢山の方が柳本を訪れますように。専行院および長岳寺のご住職、お世話をおかけいたしました。卑弥呼庵さん、まちづくり会からご推薦いただきましたが、私が柳本飛行場跡を組み込んだので、お邪魔できなくなりました。山東さん、申し訳ありません。
※喫茶 卑弥呼庵(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/50d2663e1216a5ca4b30c7f08a904fe6

ツアーの企画段階からご協力いただいた南都銀行天理南支店の皆さん、とりわけ前支店長の松尾さんには、ひとかたならずお世話をおかけしました。おかげさまで充実した歩こう会となりました、多謝!
コメント (4)
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