tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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鐘が鳴るなり東大寺

2006年07月22日 | 日々是雑感
正岡子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は、あまりにも有名な俳句だ。平凡すぎて、それまで顧みられることのなかった「柿」を句に詠み込み、当時の俳壇に新鮮な衝撃を与えたことでも知られる。
※当記事の写真は、すべて米田弘(こめだ・ひろむ)さん(御所市三室)が育てた御所柿(2014.11.9撮影)

ところがこの句は法隆寺(生駒郡斑鳩町)ではなく、東大寺(奈良市雑司町)の鐘を詠んだものだという説がある。奈良大学の浅田隆教授(近代日本文学)が講演会で話されていたそうだ。子規が法隆寺に出かける前日(明治28年10月26日)、東大寺近くの旅館で聞いた鐘の音が印象に残り、それが法隆寺の風景と結びついて詠まれたものだという。「鐘が鳴るなり東大寺」より「鐘が鳴るなり法隆寺」の方が、響きも良い。

明治28年春、新聞記者として日清戦争に従軍した子規は、同年秋に奈良への3泊ほどの旅をする。これが子規最後の旅行となるのだが、旅費の10円は夏目漱石に借りて工面した。子規は、東大寺・転害門(てがいもん)近くの「対山楼(たいざんろう)」に泊まった。『ホトトギス』(明治34年4月25日)に掲載された随筆「くだもの」中の「御所柿を食ひし事」によれば、ここで子規は夕食後、女中さんに柿を所望した。御所柿(ごしょがき)は、名前の通り奈良県御所(ごせ)市特産の甘柿である。「羊羹のように甘い」と評される。



彼女は「直径1尺5寸も有りそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た」「柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれてゐた。此女は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様に出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だといふので、余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた」

女性に関するエピソードの少ない子規にとっては、珍しいことだ。2年後に子規は「柿に思ふ奈良の旅籠の下女の顔」という句まで詠んでいる。



さて「柿も旨い、場所もいい。余はうつとりとしているとボーンという釣鐘の音が1つ聞こえてきた」、これは東大寺の初夜(午後7時)の鐘だという。「女は室の外の板間に出て、其処の障子を明けてみせた。成程東大寺は自分の頭の上に当つてある位である」「女は更に向こうを指して、大仏のお堂の後ろのあそこの処へ来て夜鹿が鳴きますからよく聞こえます。という事であつた」

子規にとって奈良は、旨い柿、美しい女性、うっとりするような風情がミックスした「癒し空間」だったのだ。

(2014.11.18 追記)「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句は、夏目漱石の俳句「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」にヒントを得て作られたのだそうだ。俳人で文学者の坪内稔典氏が書いている。《子規の代表句は,漱石との共同によって成立した。それは愚陀仏庵(漱石の松山での住居)における二人の友情の結晶だった》《個人のオリジナリティをもっぱら重んじるならば,子規の句は類想句,あるいは剽窃に近い模倣作ということになるだろう。だが,単に個人が作るのではなく,仲間などの他者の力をも加えて作品を作る,それが俳句の創造の現場だとすれば,子規のこの場合の作り方はいかにも俳句にふさわしいということになる》(坪内稔典著『柿喰ふ子規の俳句作法』岩波書店)。
コメント (4)
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