藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

今こそ社会変革の時。

2012-10-18 04:12:37 | 社会・経済

「いじめ」が何故発生するのだろうか。

我々団塊の世代にいじめなど無かったように思う。人をいじめている暇など無かった。何時もお腹を空かし、手伝い等サボろうものなら、夕食は抜きであった。家族一丸で生き抜いた感がある。

どうも「ゆとり教育」なる物が叫ばれ始めて、「いじめ」が始まったように思う。戦前の義務教育をよく知らないが、落第という言葉が存在している事からして、義務教育課程でも落第制度が存在したのではなかろうか。

必然的に「いじめ」などしている暇など無い。自らの学力を向上させなくては、落第してしまう。

小説「橋の無い川」の中に出てくる「いじめ」は、現代社会における「いじめ」とは違う。差別縦社会の中での差別であり、いわゆる現代の「いじめ」とは質が違う。

我々は何処かで勘違いをしたのではなかろうか。それは「平等」という言葉で置き換えられて、「落伍者」を出さないために、全ての基準を低く設定し、教育する事が「平等」だと思い込んだように思う。先日TVで、同志社大学の「習熟度別教育」についての放送を見ていて気が付いた。「習熟度別教育」は差別ではないのだ。

今や知名度や、レベルさえ考えなければ、全ての子供が、高等学校、大学校に進学できるという。どうも此処に問題が潜んでいるようである。努力しなくても進学できる。が進学しても付いて行けない。付いて行けないと、学校での自らの存在自体が霞んでしまう。だから中途退学者が、多いのではなかろうか。

子供は何処かで、自らの存在を示したい。ある子供はスポーツで、ある子供は音楽でと、存在をアピールできれば良いが、そうしたことの出来ない子供が陥るのが、暴力による「いじめ」ではないだろうか。

考えてみると「真の平等」とは、一人ひとりの子供にあった教育の場が与えられる事である。しかしそれは一見不可能に思える。

だが此処は大人や社会が、視点、観点を変えて、教育とは元来何なのかを考え直さなければ、何時までも「いじめ」は続くであろう。6、3、3、4制の教育制度の中で、もっと子供にとって本当に良い教育方法とは何かを、今こそ考え直すべきだ。

小学校を十年かけて卒業しても良いではないか。はたまた、四年で卒業して、中学に進学しても良いのではないか。一人ひとりの、子供の成長に合わせての、教育の場が準備されない限り、「いじめ」は消えてなくならない。

こうした考え方は、「発達障害」を持った子供にも、優しい教育の現場に成るのではなかろうか。

田中 真紀子科学文部大臣さま、此処は一つ「行政改革」の一環として、国民の英知を集め「教育改革」にまい進して欲しいものだ。

嘗て「吉永小百合」十七歳で「キューポラのある町」で大ブレイクし、勉学の時間が無くなり、高校を中退せざるを得ませんでした。大学での勉強する「夢」止みがたく、「大検」を受検しましたが、二科目合格できませんでした。進学希望校は「早稲田大学」でしたが、その話を聞いた「早稲田大学」は「教育法」の大学進学基準に記載されている、「高等学校卒業程度の学力者」という項目を生かし、門戸を開き、受験させました。情実入学ではなく、実力で合格したそうです。しかも卒業時には、次席での卒業であったそうです。当時、社会人入試制度など無かった時代の事です。

また、「森繁 久弥」は早稲田大学を中退していましたが、社会での活躍を認め、卒業生と認定し、「博士号」を送ったそうです。

教育について考える時、犯罪を犯し「服役中の囚人」の人々を考えてしまうのです。刑務所は、「懲罰的労働の要素」が多すぎて、その為再犯率が高いのではないのでしょうか。

社会復帰後に活躍できる「知識」「学識」を「入所中」に身につけることが出来ないからではないでしょうか。強制的就労ではなく、「知識」「学識」を身につける、強制的「学習」的懲罰という分野が、存在してもよいのではなかろうかと思い始めています。

特に「長期かつ不定期服役者」には、教育こそ必要であると思います。TVにおける通信教育や、教育専門の刑務所が存在しても可笑しくないのではないでしょうか。

何れにしても、われわれ大人が真剣に、教育のあり方を考えない限り、「いじめ」や「犯罪」が、はなくならないことは事実です。

「子供の虐待」もまた、大人による「いじめ」の一貫なのではないでしょうか。

一人でも多くの子供を救うために、今こそ大人の決断が試されているように思うのです。


静かな夏も終わり秋本番

2012-10-17 07:07:04 | 社会・経済

広島は、今年は例年の30%の降水量だそうである。

早朝目覚めると雨音がする。稲かりも済み、マツタケの収獲時期になっての、恵みの雨かもしれないが、我が家の奥様にとっては、残念な雨である。

本日は、「夏はぜ」の実を取りに出かけるつもりで、先週からお供を言い付かっていた。我が家の奥様が如何に強くとも雨には勝てぬ。おかげで私は無罪放免。しかし「夏はぜ」にとっても、恵みの雨かもしれない。

それにしても、今年は異常気象が続く。台風が一度も広島に来なかった。端っこさへ掠らなかった。おかげでどの小学校も、計画道理に秋の行事が進んだであろう。

それにしても、今年の広島は静かであった。

暴走族の姿が無い。暴力団に召集され、東北の瓦礫処分場に送り込まれているらしい。暴力団の資金源になっているようだ。

おまけに、広島市の市職員が暴力団に脅され、詐欺の手助けをしたという。これが発覚したが、こんな物は氷山の一角である。日本全国津図浦々、危険作業と名が付けば、其処には暴力団が張り付いている。化学コンビナートの改修工事、原発の定期検査、みな彼らの資金源なのだ。遣る人が居ないから彼らが遣る。ただそれだけだ。ただし責任ある立場の人達は専門知識が必要なので、一般市民である。誤解のなきように明記しておく。

 福島へ一ヶ月行くと二ヶ月遊んで暮らせる。そんな噂が流れてくる。


号外「脱原発」を目指して。

2012-10-16 10:55:33 | 社会・経済

号外

リトアニアで「日立」が受注済みの「原発」の建設が、国民投票で否決された。リトアニア国民の賢明な判断に敬意を表したい。

日本も、「原発」建設には、国民投票を義務付けるべきであると気が付いた。一地方自治体の、経済的優位性を求めての「原発」誘致が、結果的に近隣町村や、他府県にまで被害を及ぼす事を考えれば当然である。今まで、「原子力村」に巣食う鼠の理論で動かされて来た、「原子力行政」を国民の手に取り戻す手段は、「原発」建設許可には、「国民の同意」が不可欠であるという、「法」(国民投票)を新設すればよい。この事は、私自身にとっても盲点であった。全ての行政が、国民の合意の元に行われる事こそ、「真の民主主義」なのだ。

「脱原発」デモで、国会周辺や、新宿西口で「脱原発」の意思表示されている皆さん、仮称「原発設置国民投票法」の創設に手を携へ、取り組んでみませんか。

私は今日から、各政党の広島県本部への働きかけを、始めることにしました。


あなおそろしや。

2012-10-16 04:03:31 | 社会・経済

民主党 「蓮舫議員」は今どうしているのだろうか。

「スーパーコンピューター」開発について、「どうしても一番じゃいけないのですか、二番ではだめですか」の言葉が忘れられずその後追跡調査していた。一番と二番との差は何かの問いにその当時の担当事務官はどのように答えたのであろうか。「非常に興味がある」。日本国憲法は、今の解釈では、「自衛権は存在する」と解釈されている。が「先制攻撃権」は認められていない。戦争は何れかが「武力的攻撃」を始めた時点で始まる。

日本から創める事はない。実はここに、日本の「スーパーコンピューター」が常に一番出なければならない理由が存在する事に気づいた、というより「退役自衛官」に教わった。

現代社会では、地球上の物質(マッチ箱以上の物)が移動すると、スパイ衛星で監視できる。当然に大陸間弾道弾の発射準備から発射される時間まで確認できる。後は、進行方向、到達地点、到達時刻の計算である。計算能力の差が出るのはこの時点なのだ。「スーパーコンピューター」の能力の差とはこの計算の速さのことなのである。「スーパーコンピューター」の速さの差は、一位と二位とでは雲泥の差と為るのだそうである。早い物と早い物が競争すると、その差はより大きくなるのだそうである。この事が、防衛力に大きく影響するそうである。色々シュミレーションされた戦闘パターンを瞬時に計算し、即応するためには、「先制攻撃権」の無い日本には不可欠な武器の一種であるらしい。

現在の「原発」を点検し、事故の起こる可能性をスミレーションしソフト化したら全ての原発は動かす事が出来なくなるそうだ。それ位危険を孕んでいる。だから全て手動で動かすように設計されているそうである。もっとも一部計算が必要部分にはコンピュウターが、使用されているが、電源が失われると役に立たない。今回がその典型的事故であったようだ。慌てて二次電源を、「原発」から離れた安全な場所に新たに設置したらしいが、要するに破れかけた着物に継ぎを当てたに過ぎない。元々の着物が、晴れ着ではなく普段着でもなく、それ以下のものであったのだ。「原発製造業者」の調査をしてみると、「国防武器製造業者」と重なってきた。彼らは、国を食いつぶす、「鼠」のようなものだと気づいた。「原発」に付いては、その占める割合が世界で70%を超えることに為ったそうである。「あなおそろしや」といわざるを得ない。


天下の公党の党首なら

2012-10-15 16:46:20 | 社会・経済

大阪橋下市長が、国会を訪問したらしい。各党の党首に、挨拶廻りだそうだ。

行政の長に年休があるのだろうか。確か行政の長には365日お休みはないはずだ。総理大臣も国の行政の長である。立法府、行政府、司法府の三権の一つである。

大阪市だって立派な行政組織である。その行政組織の長が、のこのこ東京に出かけるとは、立派な職場放棄だ。彼が大阪市の問題解決のための、国への直接的交渉に出向いたのなら、立派な出張だが、「日本維新の会」なる政党の為の挨拶廻りなら、大間違いである。その事が一番解っているはずの、弁護士の方が行う行動ではない。何か大きな勘違いをしているのではなかろうか。不在中に、天変地異や重大事件、事故が大阪に発生したらどの様に対処するのだろうか。消防や警察等の、国民の安全を守る立場の公務員は、休日でも互いに調整し、事故や天災が発生した時、一定の時間内には、対策本部に駆けつけられるよう自宅待機している。市民は余り知らないが事実である。ましてや月曜日の早朝から、大阪市役所を空にして東京に出かけるなど考えられない。こんな感覚の人間が作る政党など、ろくな物にはならない。私は断言できる。現場監督のいない高層ビルの建設現場である。出来上がった物が、設計どおりのものか疑わしい。

こんな党首が作った政党など、ろくな政治など出来ない。

365日、総理の座を一日でも空ける時は、その権限を必ず誰かに委ねてから空ける。例え国連総会に出席する場合でもそうされる。この事は、天皇陛下でも同じである。その時は皇太子殿下が代行される。そうした手続きを橋下市長は手続きされて、大阪を離れたのだろうか。自分が管轄すべき行政区間さえ、見えなくなったとしか思えない。どうも代理者を置く様な事などされた形跡はない。「慣例として」助役に一任などという言い訳だけが聞こえてきそうである。

弁護士なら、ましてや天下の公党の党首なら筋道を付けて行動すべし。このように厳しい行動制限や、高度の判断力を求められるから、大阪市の中で一番の高給を支給されるのだ。その事を忘れた市長など必要ない。さっさと辞めるべきである。