「いじめ」が何故発生するのだろうか。
我々団塊の世代にいじめなど無かったように思う。人をいじめている暇など無かった。何時もお腹を空かし、手伝い等サボろうものなら、夕食は抜きであった。家族一丸で生き抜いた感がある。
どうも「ゆとり教育」なる物が叫ばれ始めて、「いじめ」が始まったように思う。戦前の義務教育をよく知らないが、落第という言葉が存在している事からして、義務教育課程でも落第制度が存在したのではなかろうか。
必然的に「いじめ」などしている暇など無い。自らの学力を向上させなくては、落第してしまう。
小説「橋の無い川」の中に出てくる「いじめ」は、現代社会における「いじめ」とは違う。差別縦社会の中での差別であり、いわゆる現代の「いじめ」とは質が違う。
我々は何処かで勘違いをしたのではなかろうか。それは「平等」という言葉で置き換えられて、「落伍者」を出さないために、全ての基準を低く設定し、教育する事が「平等」だと思い込んだように思う。先日TVで、同志社大学の「習熟度別教育」についての放送を見ていて気が付いた。「習熟度別教育」は差別ではないのだ。
今や知名度や、レベルさえ考えなければ、全ての子供が、高等学校、大学校に進学できるという。どうも此処に問題が潜んでいるようである。努力しなくても進学できる。が進学しても付いて行けない。付いて行けないと、学校での自らの存在自体が霞んでしまう。だから中途退学者が、多いのではなかろうか。
子供は何処かで、自らの存在を示したい。ある子供はスポーツで、ある子供は音楽でと、存在をアピールできれば良いが、そうしたことの出来ない子供が陥るのが、暴力による「いじめ」ではないだろうか。
考えてみると「真の平等」とは、一人ひとりの子供にあった教育の場が与えられる事である。しかしそれは一見不可能に思える。
だが此処は大人や社会が、視点、観点を変えて、教育とは元来何なのかを考え直さなければ、何時までも「いじめ」は続くであろう。6、3、3、4制の教育制度の中で、もっと子供にとって本当に良い教育方法とは何かを、今こそ考え直すべきだ。
小学校を十年かけて卒業しても良いではないか。はたまた、四年で卒業して、中学に進学しても良いのではないか。一人ひとりの、子供の成長に合わせての、教育の場が準備されない限り、「いじめ」は消えてなくならない。
こうした考え方は、「発達障害」を持った子供にも、優しい教育の現場に成るのではなかろうか。
田中 真紀子科学文部大臣さま、此処は一つ「行政改革」の一環として、国民の英知を集め「教育改革」にまい進して欲しいものだ。
嘗て「吉永小百合」十七歳で「キューポラのある町」で大ブレイクし、勉学の時間が無くなり、高校を中退せざるを得ませんでした。大学での勉強する「夢」止みがたく、「大検」を受検しましたが、二科目合格できませんでした。進学希望校は「早稲田大学」でしたが、その話を聞いた「早稲田大学」は「教育法」の大学進学基準に記載されている、「高等学校卒業程度の学力者」という項目を生かし、門戸を開き、受験させました。情実入学ではなく、実力で合格したそうです。しかも卒業時には、次席での卒業であったそうです。当時、社会人入試制度など無かった時代の事です。
また、「森繁 久弥」は早稲田大学を中退していましたが、社会での活躍を認め、卒業生と認定し、「博士号」を送ったそうです。
教育について考える時、犯罪を犯し「服役中の囚人」の人々を考えてしまうのです。刑務所は、「懲罰的労働の要素」が多すぎて、その為再犯率が高いのではないのでしょうか。
社会復帰後に活躍できる「知識」「学識」を「入所中」に身につけることが出来ないからではないでしょうか。強制的就労ではなく、「知識」「学識」を身につける、強制的「学習」的懲罰という分野が、存在してもよいのではなかろうかと思い始めています。
特に「長期かつ不定期服役者」には、教育こそ必要であると思います。TVにおける通信教育や、教育専門の刑務所が存在しても可笑しくないのではないでしょうか。
何れにしても、われわれ大人が真剣に、教育のあり方を考えない限り、「いじめ」や「犯罪」が、はなくならないことは事実です。
「子供の虐待」もまた、大人による「いじめ」の一貫なのではないでしょうか。
一人でも多くの子供を救うために、今こそ大人の決断が試されているように思うのです。