WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

錯覚

2008年06月15日 | このごろ思うこと

 アキバ無差別殺傷事件についてTVである犯罪心理学者サンが、「学生運動華やかなりし頃は全共闘や新左翼が、社会から落ちこぼれた若者のガス抜きの受け皿になっていた。現代はそうした受け皿がなく、欲求不満の捌け口が他人への無差別な攻撃性となって現れている」とコメントしていた。
 それはちょっと違うだろう。60年代後半というと大学進学率はわずか10数%。当時、全共闘や新左翼運動を主導していた学生連中は、いわばエリート予備軍(もしくはすでにエリート)だったのであって、決して「欲求不満の落ちこぼれ」では無かった。実際、彼ら「革命戦士」の多くはこっそり旗を降ろして、立派な「企業戦士」となっていった。(本稿の本題からはそれるが、全共闘・新左翼については、当事者は黙して語らず、あの体制側機関紙「産経新聞」が「総括」を試みているのは興味深い)

 また、現代の若者の受け皿を特徴付けるものとして「ネットバーチャル社会」をあげる論評もあった。確かにそういう一面もあるだろうが、これまた本質的ではないと思える。

 今日、あるTV番組で「人の脳の錯覚」が取り上げられていた。
 昔から「だまし絵」という分野がある。見方によって若い女性に見えたり老婆に見えたりする絵や壁に飾られた額が実は描かれたものであったり。だまし絵を芸術にまで高めたルネ・マグリットなどが有名だ。
 こうした二次元的「だまし絵」から発展して、最近では立体的な「だまし絵」も登場している。TVで紹介されていたのは、ペーパークラフトの恐竜。動くはずのない紙の恐竜が、どの方向から見ても顔を動かして観察者の方に目線を向けてくるように見えるのだ。そのからくりは、恐竜の顔で鼻や額など凸である(と人間が思い込んでいる)部分と、目の周囲など凹である(と人間が思い込んでいる)部分とが逆に作られており、その逆凹凸が錯覚を引き起こすのだ。
 同じような例で、ビル街の絵。二次元的な古典的遠近法では、道の先やビルの遠端などは遠くへ行くほどだんだん狭くなるように描かれる。6月13日の写真、私の足が長く見えるとしたらこれもまたカメラの特性を利用した“錯覚”だ
 この古典的二次元遠近法の絵に、さらに遠近を逆にした三次元的凹凸を付け加えるとどうなるか。観察者が動くと、まるで絵の中のビル街を歩いているように景色も動き変わる(ように見える)のだ!。まるでテレビゲームのディスプレイに展開されるバーチャル世界のようにだ。逆遠近法というのだそうだ。

人間の脳には、
1.ものをいつも見慣れているふうに見ようとする。
2.同じものを見続けていると疲れてきて、それに対する集中が弱くなり、逆のものを見たがったり認識しようとする。
3.遠くにあるものは荒い輪郭を見るが細かい輪郭は見えない。逆に、近くにあるものは細かい輪郭は見えても荒い輪郭は見えなくなる。
といった特徴があるらしい。そこからあるがままの本質ではない、実際にはないものを見たり認識したとする“錯覚”が生まれる。

 考えてみると、社会現象や政治、経済、環境問題などあらゆる事象に対しても、人間の脳は錯覚を起こしている(あるいは起こさせられている)可能性が十分にある。冒頭の学者センセイの浅薄な論評などそうした“錯覚”の典型だ。少なくとも今、自分が見聞きし感じたりしていることが実は“錯覚”ではないのか、いつもちょっと立ち止まって考えてみること、要するに「世の中を常に疑い、斜めに見る」ことは実は大事なことなのだと思う。

 最後に、TVでの交通事故回避実験。これは“錯覚”の域を超えているとは思ったのだが。
 ある処置をされた歩行者は、後から近づいてくる車(実験では自転車)を必ず避けるようになる。被験者の歩行者は、頭に特殊なヘッドホンを装着している。そのヘッドホンには左右に電極が付いており、第三者がリモコンで無線信号を送ると電極を通して歩行者の内耳に微弱な電流が流れるようになっている。人間は内耳(三半規管?)で平衡感覚をコントロールしているのはよく知られているが、微弱電流が流れると+側に重心が動いたと“錯覚”し無意識に歩く方向を電流の流れる方向へ変えるのだ。
 いくら交通事故が避けられるといっても、皆ヘッドホンを付けて歩き、事故が起きそうになると監視システムから無線で命令が送信され、無意識に歩く方向を変えるなんて、まるで「マトリックス」の世界だ。オウムのヘッドギアはバカバカしくてむしろ微笑ましかったが、こいつは不気味この上ない。しかし、こんな研究もされていることは知っておいた方がいい。


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6 コメント

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びみょ~(^^;) (月光仮面)
2008-06-16 11:15:33
ども。
 分際も省みずコメントしちゃいます。
 ちょっと怖いかな。

 私の時代は全共闘ぢゃなくて全学連でしたが、これって、60年代も前半と後半とで学生の意識は随分と変わっていったことを象徴している区分のような気がします。 
 当該の学者先生の年代によっては、そういう錯覚もある程度是認してやっても良いかな なんて思うことがありますが どんなもんでしょう。 

 60年代の後半まで、私の知っている学生の多くは自分の肩で担えるシジフォスの岩の重さを測り損ねていたような気がします。
 時代を嘆く大言壮語の果てない繰り返しを小椋佳が「道草」という題でうたっていますけれど、啄木のココアの一匙に借景したような彼のことばでは、数々の寄り道回り道としています。
 そういう昔の若者たちがいよいよ退役して閑に任せて悪さをする時代になるんでしょうか。 楽しみなことではあります(^^;
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ども (みや)
2008-06-17 01:07:44
コメントありがとうございます。アキバ事件のKぢゃないけれど、やはり投稿に反応があるというのは嬉しいものです

「となりの全共闘」の中である元闘志の方が、「結局女にもてたかった。全共闘なだけで女が寄ってきた」と「総括」されておられました。「イロヘルもゲバ棒もファッションだった」とも。

 仇敵であるはずの体制側からこれだけコケに「総括」していただいても、黙して語らない「全共闘世代」ってのは、当時は「革命に燃えている」と錯覚していても、冷静になってみるとやっぱり「女にもてたかっただけ」=Kと同じメンタリティーだったのでしょう。
 私は、全共闘終焉を横目に気が付いたらハシゴをはずされていた、それこそビミョーな世代ですが、当時の情況を振り返ってみてもそんな気はいたします。

 もっとも、「女にもてたい」というのは、エリートか落ちこぼれか、右か左かなどに関係なく、いつの時代も男のあらゆる行動の根源的モチベーションではあります。そういう意味では、かの学者さんの論評も理解できますし、「ネット依存」だの「ワーキングプア」だの「マザコン」だのといった結果論的な動機付けよりはよほど本質的だと考えます。
 
 「女にもてない」ということは、男を狂気に走らせる十分条件ではないにしても必要条件ではあります。(「犯罪の陰に女あり」という“バ格言”もありますが、これは女にもてているのではなく利用されているだけでしょう。)
「全学連世代」と「全共闘世代」に違いがあるとしたら、行動するための十分条件として「必要条件」+何かが必要だったのか、あるいは「必要条件」だけでよかったのか、の違いなのではないかというのが私の感想ですが、錯覚でしょうか?

 で、彼らの退役後ですが、やっぱり、「もてたい」男と「こりごりな」女のドロドロが続くのではないでしょうか?実際、家庭内離婚、熟年離婚、熟年恋愛・再婚ばやりなのもこの世代だという現象にも現れているような気がいたします。
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違いがあるという認識 (月光仮面)
2008-06-17 09:39:59
それ自体が実は錯覚であったとするのが、もしかしたら真実に一歩近い認識なのかもしれません。
 全学連までは学校色を強くひきずっていたように思うけれど、全共闘ってのは日大と東大でしたっけ?
 皇居前の樺美智子さんのちょっと前のころまでは学帽でのデモが多かったし、ある種の矜持というかな、竹竿を水平にもつようなメンバーを侮蔑し、警棒で額を割られて無抵抗のまま血を流す姿に彼等のエリート意識を感じることがありました。
 正直、ガンジー主義と重なるあいつらの姿は格好良かった と見ていました。 ジラード事件や砂川闘争の頃まで、日本って国は国を挙げて桑畑の拳を握り締めた彼等の姿を見守っていたような錯覚を持っています。
 全共闘では先端部分とそうでない部分との乖離がどんどん広がっていったのがシラケ感のオオモトにあったと思います。 挙句の果てにノンポリが正統派になってしまった。
 彼らが女にモテたかどうか 詳しくは知りませんが、山男が花に涙を流すことを詠って奇妙な陶酔をしてしまったりするメンタリティに通じるものがあるんでしょうか。
 まあ、女にモテルというのは卑下した言い方で、単に美学と言う言葉で表現するのが面映いからなんでしょうね。
 退役後の彼等には実はそれほど期待もしていません。 これまでの退役連中の多くがカラっぽのシステム手帳をせっせと毒にも薬にもならんような予定で埋め尽くして幸せそうな顔をする姿よりは、もうちょっと面白いことをしてくれるんぢゃないかとは思いますが。 
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すいません (みや)
2008-06-18 00:05:38
「...日本って国は国を挙げて桑畑の拳を握り締めた彼等の姿を見守っていたような錯覚を持っています。」のくだり、読解力に乏しくて恥ずかしながらおっしゃる意味がよく分かりませんでした

 それにしても、シジフォスの岩、小椋佳の「道草」、啄木のココア、ジラード事件や砂川闘争、..いろんな分野にわたっての縦横無尽な博識には感服です。またどこかの大会やイベントでお会いできました折には、いろいろな方面についてのご見識をぜひゆっくり聞かせていただきたいです。
 「全共闘や新左翼って何だったのか?」、「“女にもてたい”リビドーは男の根源的モチベーションであるか」についても私自身、もう少し考察を深めておきます。
 若いチェンソーカービング仲間がどう考えているのか、も興味があるし聞いてもみたいですが、そもそもあの時代を知らなくて関心もないかもしれませんね

 さて、私が言いたかったことは、かの犯罪心理学者さんがおっしゃった「ガス抜きとしての全共闘に当たるものがKにはなかった」という分析は、専門家としてはあまりにも浅薄だということです。
 学者さんの論法は、「“K個人”の欲求不満的資質とそのはけ口が無かったことに原因がある」とする安直な論を、「適当なガス抜きシステムが与えられていない“K世代”の資質に原因がある」と、つまり「個人の問題」を「世代の問題」に置き換えただけぢゃないか、ということです。その他の要因、特に社会的な要因を免罪している(あるいは意識的に避けている?)点では同じなわけです。
 私の考えでは、「K個人の資質に主要な原因はあったけれど、KあるいはK世代という資質を作り出したのは社会であり、K個人あるいはK世代を責めるだけでは何も解決しない」ということを言いたかったのです。
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「女にもてたい」 (ポンペイウス)
2008-06-18 23:38:45
   いまさら コメントさせていただきます。
 いつもながらの厳しい話題&そして貴重なコメント拝見させていただきました~ハードルが高い!!

「全学連」「全共闘」すいません~歴史的 コトバです~知識としては聞いたことコトあります(70'生まれなので~中途半端な世代です)
 私の父は田舎生まれの高卒で労働者による社会運動に関心があり~多少運動はしてましたが学生運動は「ボンボンの遊び」と軽蔑してました~逆に学生からは「無知の叫び?」と軽蔑されていたようです・・・・学生のエリート意識が嫌だったらしいです~本題からはなれました
 
  アキバ事件~宮崎勤の事件 時代が作り出した事件~モテない男の悲しい事件?(結構マジメに考えてます)~戦後 男女平等~結婚恋愛の自由がもたらした弊害(昔は多少もてない男性にも結婚恋愛のチャンスがあった) ~あぶれた男が起こした事件と言う側面はあるとおもいますが・・・もちろんだから全てがモテないコトが原因ではないですが~若い男性にとっては「モテ」は結構大切です(とくに性欲の発散と言うだけではなく 自己の存在意義や精神的安定)あぁ~私の愚痴かぁ?? (^恥^) 
 
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ボンボンのお遊び.. (みや)
2008-06-20 01:49:50
 厳しいですなあ。でも、確かに当たってるところもある。軽蔑されてもしかたないでしょうね。当時、「新左翼」がファッションだった頃、ノンポリは女にもてるためテニスやスキーに精出してた。逆を狙って、右翼・体育会系にはしる連中もいたな。もちろん「真面目に」勉強してるヤツも。合ハイなんてのもあった、懐かし。今で言う合コンですな。合コンももう古いのかしらん?
 私の世代はギター持ってフォーク、団塊ジュニアはロックに族、そして今はラップにダンスってとこですか。ポンペイウスさんは察するところ団塊ジュニアさんですかね。

 男にしろ女にしろ特に若いうちは、異性にもてることが重要な関心事っていうのは、人間も生物である以上、子孫繁栄のためにも大変正常で大事なことだと思います。
 しかし、人間だからこそ若いうちは清く正しく頑張らないといけない。所詮、もてないのは何らかの欠陥の証であり、Kは欠陥人間だった。ただし、そんな不良品を作り出したのは社会であり、そんな社会を支配しているのは一部の「エリート」あるいは「黒幕」と呼ばれる人たちであることもまた、否定できない事実です。

 今日、日雇い派遣の青年がTVインタビューで「オレは生きてる意味がない、Kと同じことは考える。死ねない(死ぬ勇気もない)から生きてるだけ」と言ってました。弱い立場の人をそこまで貶めて、その上前で金に飽かせて好き放題やっている人達もいるわけです。どうせヤケクソになるなら、Kたちは、一般の罪もない庶民ではなくそういう連中に刃を向けるべきだったですね。これは全共闘、「新左翼」にも言えることです。
 宮崎勤も宅間守とその類似人間たちも死刑になったし、Kも死刑になるでしょう。でも彼らも殺された名も無い人達も結局は犬死にです。戸籍簿の死亡記録くらいしかこの世に残せなかった、ほとんど存在しなかったのと同じです。殺された側の人たちはそれではあまりに無念でしょう。Kも無駄死にするくらいなら、派遣のピンハネで太り、税金で太り、株で太り、「バカな庶民が」と陰でほくそ笑んでいる連中にこそ、その刃を向けるべきだったのです。その点、イスラム原理主義の人たちの方がまだ気骨はありますね。庶民を巻き込んだ無意味な自爆テロも多いですが。

 さて、もう一歩進んで、そもそも一体人類は何のために存在しているのか?、なぜお互い殺しあって自滅しないようにしないといけないのか?、人類が宇宙に存在することの意味・価値とは何なのか?、究極的には答は出ないかもしれませんが、そのことを常に考えていかなければいけないと思います。
 その前提が無ければ、なぜ人を殺してはいけないのか、なぜよい環境や持続可能な社会が必要なのか、議論しても無意味。現代こそそうした根源的な問いに答えられる哲学が求められていると思います。
 もし、人類の存在自体に意味も価値もないのなら、環境悪化で絶滅しようが、殺しあって自滅しようが、核兵器を使って地球規模的集団自殺をしようが、宇宙的には別に何の問題もありません。
 唯一問題があるとすると、TVインタビューの“日雇い派遣君”がいみじくも言ったように、生物としての人間は「死にたくない本能」を持っているため、自分だけは死にたくないと、金と権力を使って抜け駆けするやつが必ず出てくることです。しかし、今や世界には人類を10回以上全滅させるに足る核兵器があると言います。それらの核兵器を全て同時に使えば地球規模的集団自殺は可能ですね。
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