WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

紀州雑賀衆のこと

2012年04月19日 | すごい人たち

前回、「四季の郷クラフト市」会場で出会った“武将”について、『紀州藩は徳川御三家なのになぜか紋が“下がり藤”』などと我が無知と不勉強をさらけ出してしまいました。お恥ずかしい限りです。

会場で知り合った地元の出展者さんからご指摘とご教示をいただきました。大変勉強になりました。以下、教えていただいたお話と自分でも改めて調べてみたことをまとめます。これでようやく写真の“コスプレ”が理解できました。

戦国時代、織田、豊臣、徳川はじめ源氏、平氏、藤原氏などを祖とし天下を争った有名武将達以外にも、各地方に独立系のユニークな豪族集団が割拠していた。紀州を拠点に活動していた雑賀衆もその一つ。昨年末、三重県長島市の「なばなのさと」へ行った折、「輪中」という独特の集落を形成し信長の侵略に抵抗し続けた「長島衆」のことを書いたが、どちらも一向宗の強力な帰依者集団で一向一揆の主役たちでもあった。伊賀、甲賀などの忍者集団や村上水軍などもまたそうであった。

雑賀衆のユニークなところは、鉄砲に長けた傭兵業を主な生業としていたことである。その意味では伊賀・甲賀の忍者達と共通するところもある。同じ紀州の忍者集団に根来衆というこれまた鉄砲の製造から手がけていた集団があった。雑賀衆は根来衆から多くの鉄砲を仕入れ、もっぱら射撃技術の修練を積んで、いち早く鉄砲を取り入れて各地を平定していった織田信長も手を焼くほどの、当時の日本ではNo.1と目される鉄砲集団となった。

雑賀衆の頭領、雑賀孫市は本名“鈴木孫市”、雑賀孫市は熊野信仰の“太陽神”八咫烏(三本足のカラス)を旗印としていた。日本で最も多い苗字“鈴木”一族は藤原氏の末裔で、その家紋を「下がり藤」とするグループも多かった。また敬虔な浄土真宗(一向宗)信者であった雑賀衆は前立て(兜の飾り)や旗印に“卍”を用いることもあったらしい。ちなみに現代では「日本サッカー協会」や「陸上自衛隊諜報部隊」が“八咫烏” をシンボルマークとしている。

写真の“コスプレ雑賀衆”は鳥のくちばし様の面具を装着しているが、これは雑賀衆を扱ったマンガのキャラクターが“八咫烏”をイメージした烏天狗様の面具を着装していたことによるものと思われる。実際に雑賀衆がそうした面具を装着していたかどうかは定かではない。


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
何、売ってるの? (としぼー)
2012-04-22 13:02:03
ハーイ&元気?
OB会の掲示板からたどってきました。
マア相変わらずの格調高き長文だこと。
でも懐かしく、家内と拝見させていただきました。彼女曰く「で、彼は何を扱ってられるの?紹介されていた娘さんの出版会社、費用ってどのくらい」って言ってました。
また機会が有ればお会いししましょう。
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