静岡県は長野県と県境を接している。長野県は古くは信濃の国。科(シナ)の木が多く自生していたからという説がある。
信濃は大国で、山岳や河川などの自然境界よって、大雑把に北信・中信・東信・南信と、4つに分かれる。さらに峡谷・河岸段丘・扇状地・盆地などの多様な地勢によって細分化される。気候・風土・人情の共通する地域の数は10にものぼる。木曽谷・伊奈谷・佐久平・松本平など、地名は地勢を表している。
遠州(大井川以西)と駿州(大井川以東)は信州と境を接しているものの、駿州と信州の境界は標高3000mにも及ぶ峻険な高山帯の稜線、互いに隣国を強く意識しない。
遠州のみが南信とただ一つ、青崩峠(標高1082m)で接し、人と物の流通の歴史を共有してきた。つまり長野県と静岡県とは、今日までただこの一点でのみ隣接していたと言える。
厳密にいうと、遠州が接しているのは、伊奈(伊奈谷)と呼ばれる長野県南信地方である。その南信の、伊奈山地と赤石山脈に挟まれた狭隘な谷間は、古くから遠山郷(遠山谷)と呼ばれ、信州の国府から最も僻遠の地だった。
遠州人にとって、天竜川が大いなる恵みであることは、伊奈谷の人々と変わらない。木曽山脈と伊那山地の渓谷から天竜川に集まる水は年中豊かで、伊那谷を潤してなお水量は衰えず、遠州平野をも潤す。
諏訪湖に源を発する天竜川は、伊那谷を南に真っ直ぐ流れ下り、信遠国境に至る。ここで流路を東に大きく転じて佐久間から瀬尻・二俣を経て遠州平野に出る。
延々213km、信遠国境で流れの方向を転じる理由は、数百万年前の地質時代に、流路直下の中央構造線が大きく(約20km?)左横ずれした結果といわれている。
江戸期、天竜川流域の山林は天龍美林と呼ばれ、木材の一大生産地だった。
伊那谷の人々は木材を筏に組み、この川を下って河口の集散地掛塚(現磐田市竜洋町)まで材木を輸送した。掛塚からの戻り舟は、帆をかけて川を遡り、国境近い西渡(現浜松市天竜区佐久間町大井)まで荷や人を運んだ。流れに逆らって風力で遡行できるほど、天竜川は下流域の遠州では緩やかな流れだったことがわかる。
西渡から先は荷を馬に積み替え、秋葉街道を水窪の青崩峠に向かった。遠信国境の道は、秋葉信仰の道と山国へ塩を運ぶ道でもあった。
峠の直下を走る中央構造線によって破砕された山体は崩れ易く、古くから青崩峠の通行は難渋を極めた。近代になっても舗装道路を建設することができず、国道152号線は青崩峠で途切れている。
青崩峠は現代でも徒歩でしか越えられない。信州側の冬の寒気は厳しく、雪は大人の膝下ほどに積もる。
峠の名の由来となった青灰色の断崖が、信州側の山腹の至るところで谷底まで切れ落ちている。
峠路は細かく砕けたザレ道で、かつてこの道を辿り遠州に侵攻した甲州武田の軍勢も、困難な行軍を強いられたと伝わる。兵馬が千仭の谷に呑みこまれることもあっただろう。
この峠の北麓、現飯田市南信濃和田や同所上村など、かつての南信濃村行政区域であった地域が古く遠山郷と呼ばれたのは、信州の国府上田から見て僻遠の地であったことによる。狭隘な谷間の村は、信州で一、二を争う寒村だった。
峠路歩きの好きな私は、紅葉・新緑の季節ばかりか真冬の雪のある時でも、好んでこの峠を越した。青崩峠は、遠信国境唯一の生活路だった。
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