道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

エレガント

2020年04月11日 | 人文考察
現下のような緊迫状況にあるときは、平常心を失わないようにしたい。そこで、滅多に表明したことのない、私的な関心事について考えた。

馬齢を重ねてきたが、現実の女性の中にエレガント[elegant]な婦人を見出すことはほとんどなかった。婦人方がギャラン[galant]と言える男性を見つけ得ないのと、好対照であろう。どちらもこの国の言語でないからその概念が無く、具体的なイメージを掴めないし描けない。そもそも本場の西欧の地にあっても、エレガントやギャランは、滅多に居るものではないのだろう。

我が社会には、綺麗・器量好し・別嬪・可愛いなど、美しい女性への美辞麗句が数多くあるが、エレガント・エレガンスに該る日本語はまったく無い。日本人には、もともと女性のエレガンスを賞賛する感情が
ていた西洋の概念であるエレガンスを、私たちの近代は女性の最高の美質として認識することができなかったようだ。

優雅という言葉は昔から日本語にあったものでなく、エレガンスと言う外国語を知ってその訳語として苦心して造られた語だろう。エレガンスを優雅と訳されても、明治の人々はピンとこなかったに違いない。今日の我々でも、その当時とあまり変わらない。それはノーブルとか上品とも明らかに違う。ユーモアの語と同じく、頭では理解はできても、実感できないのがエレガンスだ。

西欧ではエレガンスの概念は女性だけでなく、あらゆる物に及んでいる。城や貴族の居館、公共建築物、私邸、インテリア、庭園、衣服、馬車、馬具など、美意識の対象となる生活のすべてのものに亘ってエレガンスを見出すことができる。エレガンスを重大視している。

前置きはさておき、老生は中学生の頃に、エレガントに出くわした。
まことに舊い話で恐縮だが、中学一年生の時に観た映画の中の女優さんに、初めてエレガントという形容表現の対象を見たように憶う。

地元のデパートのアミューズメント・コーナーの、学生向けミニ映画館で上映されていた戦前(なんと1935年もの)のフランス映画「隊長ブーリバ」がその映画だった。ゴーゴリの名作「タラス・ブーリバ」は、戦後にハリウッドやソ連・イタリアでも映画化されているが、私の観たこのモノクロ映画が、演出とキャスティングにおいて他を凌駕するものだった。

この映画の主演女優が フランス映画界の名花と謳われたダニエル・ダリュー。出演当時は18歳、役柄はコサックと敵対するポーランド貴族の娘で、コサックのアタマン(隊長)タラス・ブーリバの次男の恋人役だった。

この女優さんをスクリーンで観た私は、直感的にエレガントというものを感得した。演じた役柄のせいもあっただろう。今思うと随分早熟な中学1年生だった。

エレガンスは、外見よりも内面の要素が大きく作用しているらしい。西洋人はそれを識っていたのだから、女性への観察の鋭さは、われわれ東北アジア人の及ぶところではない。

私はエレガンスを女性美の極致と考える。女性の内面にある、落ち着き、余裕、慎み、優しさ、親切、鷹揚などが総合されて、自然に表れ出るものではないか?

なぜ私がこうまでエレガンスにこだわるのか?それは生の、剥き出しの、生命力溢れるものが苦手だからである。私は子どもの頃からあからさまで直截的なものより、控えめで慎ましい方を好ましく感じる質だった。真夏の太陽は、眩しくて落ち着けないが、春・秋の柔らかな陽射しは駘蕩へと導いてくれる。

歳を取ったお陰で、私は男性の人間的魅力の核心はtolerance(寛容性)にあり、女性の人間的な魅力の核心はelegance (エレガンス)にあると堅く信じるようになった。

エレガンスは、本人が自分の美質とか才能を剥き出しに表さないところに生まれる。余裕があるから控えめであり、内面が豊かだから慎ましい。ストイックとも違って、力まないところが好ましい。

正直言うと、私はこれまでの人生で
、現実のエレガントな女性に3人だけ出会った。
1人は連れ合いであるとしておこう。
毎日叱られたり怒鳴られたりしているが・・・

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