道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

君が臥床・姥が懐

2010年09月04日 | 歴史探索

天正3年(1575年)511日、武田勝頼はそれまで攻囲していた吉田城(豊橋市)の囲みを解いて北上し、徳川方の奥平貞昌以下500人が籠もる長篠城を15,000人の軍勢で包囲した。

武田軍は、峡谷を挟んで城の東南の対岸に位置する丘陵に、5つの砦を構えた。城の東から南にかけて封鎖線を敷いたことになる。タイトルは、この砦群の列の東端とその手前、2つの丘の名称である。

〈君が臥床〉は砦群の最東端、三州街道から浜松へ向かう分岐点を扼し、その西隣の〈姥が懐〉と並んでいる。どちらの名称もゆかしい響きのある、耳慣れない地名だ。どう考えても、土地の人々に古くから呼び慣わされていた丘の名称とは思えない。

他の3つの丘陵は〈鳶ヶ巣山〉〈中山〉〈久間山〉とごく平凡な地名である。いったい誰がいつ頃、この珍しい名を付けたのだろう?またまた好奇の虫が頭を擡げた。

長篠は浜松から北西に八里(約32Km)、長篠城は寒狭川と大野川がそれぞれ北と北東から一つに合流し、豊川になる地点の段丘一帯に築かれている。

段丘上面を土塁と空堀で区切って曲輪を築き、大手は北の街道に、搦手は南の急峻な段丘崖を降り豊川に接する。東・西・南からは攻撃の難しい天然の要害である。

段丘面の標高は海抜60mから高いところで100m前後。長篠の平担部と周囲の300mから400m前後の山々との比高はその分低まり、鳥瞰するなら長篠はなだらかな丘陵に囲まれた穏やかな小盆地の景観を呈するだろう。

この2つの砦の名称を初めて知った時、すぐに現地に登ってみた。なんの変哲もない平凡な丘だった。

それにしても、このような雅味のある山名は他の土地にもあるのだろうかと疑問が湧いた。調べて見たが、高山名山はもとより、低山里山でも類似の名称は見い出せなかった。

ふたつの丘の典雅な名称は、当時の現地住民に馴染まれていた通名でなく、軍事上の情報統制すなわち砦の所在を晦ます目的で用いられた暗号名(コードネーム)とは考えられないだろうか?

一般に攻城には、土地の住民が労役に徴発されることが多い。住民達が常に呼び慣わしている山名を用いれば、砦の所在と兵力はもとより、兵糧、弾薬の備蓄、本営からの指示命令も城の奥平方に筒抜けになるだろう。

城からやや離れ、遠州への退路を断つ位置にあるこのふたつの砦は、存在や兵力を城方に隠しておく必要があったのではないか?他の3つの通名の砦が、城内の偵察目的と城兵に脅威を与える示威目的であるのと違い、伏兵を潜ませた隠し砦であったかもしれない。

もしそうであったなら、511日の布陣にあたり、医王寺山の武田勝頼本陣の櫓から南東の連丘を望見し、兵を配した丘稜のたおやかな山容の印象をもって暗号名を定めた武田軍の幕僚が居たはずである。それは誰であったのか?謎はさらなる想像を呼ぶ。

当時勝頼の陣営にいたと思われる幕僚の中で、もっとも文人的素養の高かったのは、勝頼側近の穴山信君(梅雪)である。

この人は信玄の甥で娘婿でもあり、風雅の才に秀でていたことで知られている。彼は長篠敗戦の直後、他の重臣から主君勝頼に先んじて戦線離脱を図ったとして厳しく糾弾されたが、勝頼の信頼は揺るがず事なきを得ている。

また武田家の外交に携わっていた関係で、徳川家康との誼も深かった。織田信長得意の調略が、家康を通じて穴山梅雪に及んでいたかどうかは知る由もないが、武田家滅亡後に家康に仕えているから、保身の巧みな才子だったことは間違いない。

その3ヶ月後の本能寺の変の直前、信長に招かれ安土城で歓待された家康一行の中に信君が居たことは、彼が徳川・織田に通じていた可能性を窺わせるに十分なものがある。  

光秀が信長を討った直後、堺にあった家康主従は急ぎ畿内を脱出するが、その逃避行の途中で信君は不運にも土民の襲撃を受け落命している。同行者中唯1人の犠牲者である。裏切り者の宿命であろうか?・・・

これらの砦群に対して、設楽原戦の前夜、酒井忠次指揮下の徳川別動隊4,000人は、密かに豊川を渡り、砦群の南を大きく迂回して背後に迫った。早朝の設楽が原の開戦と同時に砦群を奇襲、守備隊を全滅させている。

この日設楽原の主戦場では、織田・徳川連合軍と武田軍とが死闘を繰り広げ、連合軍が大勝した。多数の将兵を失った武田勝頼は、属将の山家三方衆のひとり菅沼定忠に導かれ、4里(約16km)ほど北に在った定忠の持城〈田峯城〉へ逃れた。

ところが、形勢がいったん不利に傾くと離反が相次ぐのはこの世の常、城を預かっていた定忠の家老はじめ宿将たちは、城門を固く閉ざして一行の入城を拒んだ。彼らの生存と領地の保全のためには、そうせざるをなかったのだろう。

勝頼主従は窮地に陥り、定忠は面目を失った。その時の怒りは凄まじいものであったろう。(翌年定忠は手勢をもってこの城を急襲し、捕えた家老その他の宿将を鋸挽きの刑に処し、彼らの一族、男女多数を惨殺している)

やむなく勝頼一行は落武者狩りの危のある主街道を避け、標高約800m前後の奥三河特有の高原地帯を深夜10里(約40km)ほど駆け抜け、辛うじて稲武(岐阜県)の〈武節城〉へ入った。そこから先は武田勢の領域、勝頼は漸く死地を脱し風呂に入ったという。

歴史というものは過去の事件・人事の博物館であり、私たちが社会や人間を考えるうえで無限の材料を提供してくれる。

通史をそのまま鵜呑みすることなく、自由な発想と推理で再検証を試みることは、黴の生えやすい歴史を、新鮮な空気に曝し陽の光にあてることである。それは歴史の真実に僅かでも近づこうとする意欲の表れである。

史実は文献史料と考古史料すなわち傍証で成り立っている。しかし網羅的に史料を集めることはできない。つまり史料は、後世にアトランダムに出現するものである。

歴史は真実を確かめる為にあるのではない。真実を確かめようのない歴史は審判すべきものでもない。直接証拠の得られないものに審判は下せない。ただ後世の人間に、人と社会を考える思考の端緒(いとぐち)を、尽きることなく与え続けてくれているだけである。


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