片づけ方には人それぞれ発想の違いが顕れる。たとえばテレビやDVDプレーヤーのリモコンの置き場所。他の人がかたづけると、もう置き場所がわからない。その人と発想が違うから、置き場所を推定できないのだ。探し回った挙げ句、推測不能な意外なところ(自分としては)にあって驚く。同様に、雑誌、郵便物、書類なども、自分の発想では考えられない場所に、考えられない仕方で仕舞われることがある。そうなると、自分の頭の中の検索手順にない場所だから、探し出すことが不可能になってしまう。
これが主婦の聖域、台所ともなると、食品、食器その他調理用具などは彼女の発想で思うがままに収納・配置されている。発想の違う亭主がたまに酒の肴でも作ろうかと立ち入ると、そこはある種の異境、魔界で、調理器具の在処がさっぱりわからず立ち往生することになる。想像を絶する配置が採用されているからだ。家庭内であっても、共用する空間はなるべく任意性を排除してより標準的な誰にもわかりやすい配置、収納を図りたいものだが、どうも私たちはこれがうまくない。
聞くところによると、欧米の個人住宅の厨房というものは、設備のレイアウトから食器の収納、調理用具の配置に至るまで、作業性が最善となるよう標準化されているらしく、どの家も似たか寄ったかであるらしい。したがって、他人が厨房に入ってもまごつくことなく料理がつくれるとか。機能を最優先する合理性が社会全体にゆきわたり、個々人の発想のバラツキの幅を狭める意識があるのだろう。
事は個人宅の厨房に限らず、彼らはオフィスにおいても、書類、帳簿、事務用品の収納や配置が上手い。標準化の基礎である合理性を稟性として具えているとしか思えない。
成る可くルーチンな仕事は、標準化して発想のバラツキを抑制しなければならない。私たちの文化は、個人的なことは各人各様の発想の任意性を尊重し合う方を好む。公の場すなわち社会生活においては、事細かく厳密なきまりがあり、それらの諸規範を守ることに腐心しているから、私の場では可能な限り任意な発想を重んじたいのではないかと思う。数寄に通ずる性向と言えるだろう。その結果、合理的に処理されるべき事柄が標準化できず、各人各様の発想のバラツキに振り回されることが多くなる。
個人にかぎらず組織や機関にも発想はある。太平洋戦争当時、米国は日本の軍事政権と国民の発想を組織的かつ徹底的にリサーチして作戦に活かしたが、日本ではそのような研究を全くしていなかった。敵を知り己を知るとは、互いの発想の違いを知り戦略・戦術に活かすことだが。せっかくの孫子の教えも、日本人には空念仏だったらしい。
個人でも組織でも、彼我の発想の違いを知り、認識の異なる所以を理解して、的確に対処することが肝腎だ。私たちの人生が人との関わりで成り立つ以上、他者の発想に留意し、その違いに寛容であることは、他の何事にも優先する目標であり、それは結果として徳目のひとつに成ると思う。
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