道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

島山

2013年01月08日 | 旅・行楽

 伊勢湾口に浮かぶ神島を訪れたとき、島山という言葉を実感した。この島は周囲4km、海抜171mを最高点に傾斜面がそのまま海に没し、平地はほとんど無い。船から見ると、樹木に覆われた島の姿は、海に浮かぶ山そのものだった。

 考えてみれば、
島というものは地勢のうえでは山と変わらない。海の水が干上がり、我々が海底から島を見上げることができるなら、粗々しい岩肌の山腹と、頂部のみに植生がある山容を眺められるだろう。逆に海面が大幅に上昇すれば、現在の山の多くは島嶼なる。島と山の根本的な違いは、基部が海底にあるか陸上にあるかだけのことである。

 港の桟橋を抜け、三島由紀夫が「潮騒」執筆当時に寄寓した民家のある集落に入ると道は急な登り坂になり、続いて階段が現れてきた。その先は断崖
上の岨道で展望が開けてくる 
 歩きながら(これは山登りだ!)と思った。船から降りた桟橋が登山口とすれば、標高差170mの山・・・・。

 多年親しんできた登山では、車で林道を登り詰めた最終
点の登山口から登ることが多い。4合目から5合目、中には、8合目以上まで車やロープウエー・ケーブルカーで行ける山もある。今や日本の登山のほとんどは、山の標高の半分以上を観光道路や林道を利用してアクセスできる。楽に山頂を踏めるのは有り難いが、その安直さが山との係わりを浅くするのは否めない。遭難の増加とも無関係ではないだろう。

 重い荷を背負い、長い山麓歩きと幕営の末に山頂を極める登山が、伝記の世界のものになって久しい。今や山の標高の高低は、登山の難易・内容を意味しない。その実質は、登降した標高差(正確に言えば累積標高差)と、歩き始めた地点の高さで知るしかない。


 登山口を海面に準えるなら、今日の山歩きの大半は、島山に上陸するようなものと看做すことができる。登山口までの山体の大部分は歩かないのだから、そこは島の海面下と同じことだ。登山口が上昇すればするほど、山が島に
似たものになるとは気づかなかった。
 そうと分かれば事は迅い。今後は山と島を別物と見ないで、山めぐり、島めぐりを一纏めに楽しむことにしよう。 

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