湾岸から隅田川の勝ち鬨橋上流を眺めると、高層ビルが沿岸に林立している。世界一の地震国であるという都合の悪い事実を、意識の外へ追い出したか忘れたか?首都の高層ビル群には、かつて原発を推し進めた論理と共通する思考を感じる。
軟弱な地盤でも、建築技術で建物の安全性を確保できるという、我々の科学技術への盲目的な信頼は、関西大震災と3.11東日本大震災によって、迷蒙だったことが証明されている。この現代的な景観が、僅か90年前の関東大震災で全ての建物が崩壊し、誘発された火災によって灰燼に帰した場所に出現しているとは、どうしても納得し難い。
近代的な都市というものが、高層ビルに象徴されるようになったのは、ニューヨークのエンパイアステートビルに始まると思うが、同ビルの竣工から既に81年(その8年前に関東大震災があった)、世界の都市の超高層化を目指すエネルギーはいっこうに衰えず、新興国ほど顕著になっている。今なお都市の超高層ビルは、国勢を示し国威を表す象徴として、数を増やし高さを競う。
多数の人を限られた狭い地域に集めようとすれば、建物を高層化するしかない。都市の市街が高層化するのは経済的合理性に基づく必然だが、実際は非合理な面も隠れている。
元来、人間というものは理屈抜きに高みを求める生き物で、それは精神的にも人間の活動を支配してきた。人は水さえ得られるなら、より高い場所に住みたがる。また、高山や高い場所にあるモノは、古来信仰の対象ともなってきた。高みを目指す願望は建造物に投影され、バベルの塔やエジプトのピラミッド、キリスト教の大聖堂、五重の塔を造り上げた。
5月22日に開業する東京スカイツリーの本来の目的は電波塔だが、その機能だけを満たすなら、610mほどでもよかったらしい。634mとしたのは、単に武蔵の国のムサシ(634)の語呂合わせだという。外国の電波塔に勝る必要があったのだろうか?それはそれで結構だが、高さ競争への参加資格は、技術よりも、基盤となる地質構造の強固さが、優先されて然るべきだと思うのだが・・・。
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