当ブログを始めるに当って敢えて「政治」のカテゴリを設けなかった。政治に関するブログ記事は書くまいと心に決めていたからである。
そのことは間違いでなかったように思う。この10年間の日本の政治の有様は、前代未聞の惨状を呈していたから、当ブログの記事投稿は、政権批判一辺倒になっていたことだろう。
この期間の治世で、賞賛したり得心できることは殆どなかった。政治家の独断専横とそれに阿ね協力する官僚の扈従ぶりが、毎日のようにテレビ画面と新聞紙面を賑わせていた。
私たちは政治に関する情報を、メディアの発信した二次情報乃ち報道によって得ている。報道を根拠に、非難したり憤慨したりしているが、一次情報は取材者に限られるから、報道というものは既に取材者・編集者の意向や考えが入っている。メディアの報道の信頼性を疑う人は少ないが、人手が加わった二次情報による人心操作には、私たち一般人は注意しなければいけない。
報道機関ともマスメディアとも呼ばれる4大新聞・外信2社・NHK・民放テレビ局(ほとんどが新聞社系)・さらに彼らのスポンサーを擁する広告代理店の電通・博報堂など、広い意味でのメディアが制作する報道は、政権の巧妙な世論操作の重要な役割りを担っている。わが国では特にこの10年、メディアの政権迎合が顕著になって来た。
メディアの中でも特に大衆への発信力が高いテレビなど通信媒体は、巧みに政権への忖度や協力を隠しつつ、ジャーナリズムの建前のもとに報道番組を制作しているが、その本質はジャーナリズムではない。
日本の放送制度の下では、すべてのテレビ局は政権の顔色を伺わざるを得ない。報道機関は決して不党不偏の中立者でもなければ政権監視の代理人でもない。勿論社会正義の実行者などではサラサラない。黒川元検事長の賭け麻雀問題は、メディアの本質をあからさまに露呈した。
私たち国民の多くは、こと政治の問題に関しては、メディアの発信する政治報道を根拠に、SNSを利用し意見を発信している。メディア発の政治情報を疑わない性向は、メディアへの政治支配を疑わない性向と一致している。
戦前の軍国主義の時代も、当時のメディアは一貫して軍部・政権に協力加担し、そのプロパガンダの一翼を担っていた。戦後占領軍の政策のもとで看板を掛け替え、新生民主国家のジャーナリズムのポストに収まったが、体質まで変わるものではない。敗戦により社会のあらゆる組織が民主的に看板を書き改めたが、その中身は牢固として変わっていない。民族の精神構造は、敗戦ぐらいのことでは変わらない。
政策というものは、筋が通っているように見られているが、本質は理論的な根拠をもたない。状況に左右され何でもありの、場当たり的なものである。だから政治は、本来理非曲直をもって批判する対象とはならない。正しいと思った政策が、50年、100年経って誤りだったと判ることは多い。
原発が好個の例である。あれは人類の夢を実現する政策だった。また逆に、悪政として未曾有の反対運動を巻き起こした岸政権の安保改定が、その後の東アジアの政治状況に適応していた事実もある。本当は為政者自身にも結果を予想出来ないもの、それが政治というものだろう。
政策の当否は歴史の審判に委ねるしかない。同時代の人間には、政策を判断することが極めて難しい。
時の政権が推進しようとする政策は、不都合な予測が隠され好都合な予想のみ喧伝される。それを真に受けて信ずる民意が生ずる限り、政策の正当性を国民自身がチェックすることなど不可能だと思う。
主義というものも、非常に曖昧で胡散臭いものである。民主主義を標榜していながら、運用次第では専制的にもファシズムにも限りなく近づく。前政権も現政権も、首相の恣意的な政治行動が指摘されているが、それを抑制する手段は、国民には与えられていないに等しい。
制度でも法律でも、人心を制御することは難しい。そこを政権はメディアの情報操作に期待する。民主的な専制政治はメディアによって実現が可能になる。
政治のダイナミズムを知れば知るほど、論理性や合理性と相容れないものを感ずる。理論の確立していないものの当否を論断出来る同時代人などひとりもいないと考えている。信用してよいかどうかがあるだけだ。
人間の予見能力の覚束なさを知れば知るほど、現在当非の議論が伯仲している問題は、軽々に判断や結論はできない。テレビのワイドショーに顔を出す政治評論家などの話は、視聴するだけ時間の浪費である。一過性のコメントは何の参考にもならない。
歴史は善政と堅く信じて国を誤らせた政治家の存在を伝える反面、私利私欲に奔りながら結果として国を守った政治家の存在をも伝えている。池波正太郎は人は善いことをしながら悪ことをし、悪いことをしながら善いことをすると小説の中で登場者に云わせている。政治家も人である。善いことだけ、悪いことだけで生涯を閉じる人は数少ない。
悪いことをする権力の行動や言動を、別の権力であるメディアの報道で知っても、それは伝聞情報に過ぎず、知っても私たち庶民にはそれが真実かどうか判別できない。報道もひとつの商品である。売れる(国民の関心が高い)と見れば、質が悪くても量産される。政治家のすることに、いちいち目鯨を立てていたら、国民の精神衛生は悪化する一方だろう。
悪政を難じても世の中は変わらない。善政は永く続かない。
私たち選挙民は、何よりも政治に関心は深いものの、直接一次情報に触れる事は不可能である。メディアの流す二次情報に触れる事しかできない。営利企業のメディアが流す無償の情報、すなわち報道という名の商品(二次情報)は、経営者の意向による加工が施されていると考えるのが妥当であり、信頼するに該らない。重ねて言うが、私たちが接することができるのは、報道という名の商品である。
メディアはジャーナリズムではない。
メディアも政権の一翼(広報)を担っていると見るのが正しい認識であろう。営利事業であり、免許事業である通信分野のメディアは、客観的で良心的な報道はできないと見るのが正しい認識ではないか。
本当は、アメリカのように、支持政党を明確にするメディア、政党色の強いメディアが乱立するのが民主主義にとって好いと思う。
日本のメディアの不偏不党の建前は欺瞞である。ジャーナリズムは本来民の側に立ち、反権力の立場であるべきだが、反権力の牙も爪ももたない日本のメディアは、政権に飼い慣らされ野生を失っている。
メディアの政治記者にもジャーナリストとしての矜持を崩さない人はいる。だが、個人のジャーナリストとしての正義感は、メディアの報道に反映されることは少ない。営利企業であり権力であるメディアの体質を知れば、我々が得ている情報のほとんどは、生なものではなく、何らかの加工が施されていると思って間違いない。特にIT化の進んだメディアの編集の現場では、チェックの機械化・自動化が進んでいる。チェックの網を潜り抜ける情報は皆無であろう。IT社会のメリットを最大に享受するのは権力の側と定まっている。安倍政権以後の、メディアと一体化した政治状況は、庶民がITで得るメリットなどタカがしれていることを物語る。SNSに興じネットニュースを見ているうちに、選挙民は政権の意のままに操られていくことだろう。
それでも、人間社会がある限り、個人の正義感やジャーナリズムが失われることはない。先人の屍を乗り越えて、虚偽や不正、隠蔽をあばくジャーナリズムの精神は滅びることはないだろう。私たちは、虚無に堕ち入らないことが肝腎だ。
信頼に値しない情報に振り回され、「モグラ叩き」で鬱憤晴しを続けるのは徒労でしかない。私たちは、メディアの発信した情報すなわち検証不能な伝聞情報に触れるしか方法がないので、モグラ叩きでは何の政治的効果も挙げられない。
私たち一般人は、メディア経由の二次情報に接することしかできない。その情報は、政権に忖度ないしは追従するメディアの本質からして、歪曲されていたり粉飾されていることが避けられない。全幅の信頼を置けない伝聞情報を真に受けると、判断を誤る可能性が高い。政治のプロパガンダに使嗾されないことが大切である。
この考えは、Twitter で呟くことを私が自制している事情に繋がっている。Twitter は国民の意向を知る絶好のツールであり、政権の欲しいメタ情報の収集源である。その効用と精度は、報道機関の実施する時代遅れのアンケート調査などの比ではない。国民が報道で知るアンケート調査など、今日の政権は見てもいないだろうし信じてもいないだろう。
政治をメディアに由ってしか知ることのできない私たち一般人は、伝聞情報に基づいて悲憤慷慨すべきではない。その反応をSNSで公開しどれほど多く支持や賛同があっても、それは力とはならない。それは統治機構にとってまことに好都合な、国民の意思のサンプリングへの協力である。インターネット上で集めたメタ情報の活用は、今や政権の情報収集活動の主流である。
かつての大東亜戦争の時のように、軍の意を汲んだメディアに操られ踊らされた愚を再び繰り返してはならない。
私たちは、事実や真実を含む一次情報の周りの情報の渦の中で生きている。多くの情報に触れるのは結構だが、二次情報、三次情報に基づいて自己の考えを形成すのは思考の無駄遣いである。企業ジャーナリズムは信頼できないし、真のジャーナリストは極めて寡なく、その存在基盤も危うい。少し前の昭和の時代には、
私を含めて国民の大半が、NHKを最も信用できる報道機関と信じ疑わなかった。その時代こそ、自民党が基盤を強化し、国政に君臨し、一党独裁の基盤を固めた時代である。
メディア経由の二次情報に接することしかできないネット市民は、その二次情報に基づいて何かを考え何かを書いても政治的な意義はない。一過性のそれはSNS業者を肥やすことにしかならない。提供されるアプリケーションが無償なのは、それが提供者の利益の源泉であるからである。無料アプリは利用者に便益をもたらすが、提供者と利害を共有するものではない。SNSというものは、膨大な数の利用者の、精神労働で支えられているのだ。
メディアの二次情報に触発された義憤や悲嘆は、情緒的共感を巻き起こしはすれ、論理的な共感や理念の共有までには至らないと思う。深いところで共感するには、SNSはあまりにも安直すぎる。リモートでは人間的な連帯は生まれない。
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