長年購読していた新聞一紙を、来月から止めることにした。紙面の構成と報道の内容が、読者として忍耐の限界を超えたからである。私の購読していた新聞は、いつの間にか、地域の様々なイベント情報やどうでもよい埋草記事と、大手企業の全面広告とで紙面が構成される、ジャーナリズムと程遠い存在になってしまった。
新聞には物心ついた時からお世話になって来た。公的で信頼できるマスメディアとしての地位は確固としていた(と思っていた)。社会生活を営む上で必須の情報源だった。
小学生の時から、漢字や熟語を覚えるのは専ら新聞記事からだった。新聞を読むのは日常生活に欠かせない習慣だった。できることなら購読を止めたたくなかったが、不快に堪えてまで読みたいとは思わない。今や新聞には、庶民がかつて託していた自主性・公平性や権力監視機能など、昔日の面影がない。新聞がポーズにもせよ社会の木鐸であった時代は遠くなった。
政治・経済・外交の情報を独占的に握り、国内外の社会状況、生活情報を細大漏らさず伝えることができるメディアは、今日でも新聞を措いて他にはない。
メディアと雖も時代の流れには逆らえず、社会の変化と読者の関心の所在の遷移と無縁でいられるものでないことを痛感する。
既にテレビの視聴では、能力に疑問のあるMCやコメンテーターの起用に辟易させられる報道バラエティー番組や、お笑い芸人を多数出演させる低コスト探訪番組を観なくなって久しい。NHKを除くと、民放テレビ局の制作コスト削減は、あらゆる番組に及んでいるように見える。番組の質の低下は避けられない。
親会社の新聞と子会社のテレビ局は、一心同体。広告スポンサーも同じで、経営環境に大きな差異はない。したがって、ネットが広告の主役に躍り出た時代にあっては、新聞・テレビの収益力の低下は同時に進行するだろう。
私が若い頃は、活字媒体は印刷という伝達手段、映像媒体はテレビという伝達手段で棲み分けていた。そして今日、活字と映像は瞬時に全世界を駆け巡るインターネットという伝達手段が主流になりつつある。速報性という点では、誰もがその恩恵にあずかっている。
報道がネット媒体にメディア主流の座を奪われないためには、見識・良識が全てを決める。調査報道は新聞にこそ相応しかった。
伝達手段の進化は媒体の革新を招くが、発信・伝達の意欲・意思というものは、遠く印刷機発明の時代から変わらない。発信者の意思が受信者を動かしてこそ、メディアの存在意義はある。読む者・観る者を動かさない報道は、媒体が何であれ、無用のものである。
ネット新聞は点 紙の新聞は線で結べるんです
紙の新聞の1面は要約 詳しくは何面へですから
私も紙面購読について悩んでいます。
夕刊は大分前に止めましたが......なんだか寂しくもありつつ、でも朝刊も止めようか悩んでいます。
たしかに新聞のない生活は初めてなので、
一抹の寂しさはあります。
年齢のせいで、生活そのものが想像を超える変化をしていますので、その一環と受け止めています。