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道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

漢字と敬語について

2013年04月20日 | 随想

日本に在住する外国人が日本語を覚えるとき、最も苦しむのが漢字を覚えることと敬語の用法だという敬語は、私たち日本人でも使い方が難しく、使い方を誤ることも多い。

かつてヨーロッパからきたある数学者がテレビで、アルファベットの欧米語と違って日本語は、漢字の記憶保持の為に、脳に過大な負荷がかかっているのではないか?また、多様な敬語の中から最適の敬語を選び出す作業の為にに、脳が徒らに機械的作業に追われるのではないか?などと疑問を呈していた。

タテ・ヨコ・ナナメの複雑な線を組み合わせた無数の文字を一つ一つ記憶し、記入の都度書き順を誤らずに再現するのは、脳内で相当のプロセスを経る。   また、数ある敬語表現の中から最適の敬語を選び出す判断のプロセスも簡単ではない。それに割り当てられる脳の作業は、非漢字圏や敬語表現の単純な国々の人々の脳と比べると、極めて大きく重い負担があるという。そのため、脳が本来司るべき高度な思考や演算、創造、機知などの分野を、漢字の記憶と表現及び敬語活用において、ルーチン化された繰り返しが、脳の働きを偏らせているのではないかと考えている

コンュータのメモリやCPUの仕組みから類推ると、まったく的はずれな批判とも思われない。たしかに、国語の優秀な生徒に、数学の苦手が圧倒的に多いことは誰もが知っているところだし、日本人に、いや漢字圏の中国・韓国の人々にウィットやユーモアのセンスが甚だ欠けるのも、そのこととと関係があるかもしれない。

日本の近世の初等教育は読み書きソロバンで、この読み書きは漢字を憶える手段だった。思い返すと、我々も小学生の頃に毎日書取りの宿題をやらされ、文字と熟語を憶えることに多大な精神的労力と時間を割いた。小学校5・6年でも、年間でほぼ300時間もの書取宿題を、熟さなくてはならなかった。文字を憶え書くために、自由で創造的ことに熱中する時間を削られていたと思う。

幼児期にアルファベットを憶える欧米人は、初等教育ではその文字の組み合わせである単語を段階的に覚え、ボキャブラリーを増やす。言語を覚えることに費やす時間の彼我の差は、極めて大きいと思われる。学齢期の脳の創造的分野の発達に対する侵害性は明らかだ。

更に困ったことに、日本では字が達筆であることが教養の一部と考えられていて、書道がある。字を巧みに書くことは、言語能力とは全く関係ないことなのだが。一般的には、これに年間約50時間は充てる。2・3年生の頃には、1年間に概算350時間を、非創造的活動に投入しているのではないか?

すなわち、彼の観察によれば、漢字を用いる国々の国民は、学童期に始まる漢字と敬語の学習によって、脳の総合的活動のうちのランダム性というか自由な発想を司る分野が、圧迫を受けている可能性がある。

この比較は、欧文タイプライターと、和文タイプライター(ワープロ出現前には使われていた)の違いを考えると分かり易い。
記号も含めて僅かな文字の活字を格納した欧文タイプライターは、それが発明されたときからコンパクトで、印字スピードも、60語(字ではありません)/分と極めて速い。対する和文タイプライターは、漢字活字の格納板は机半分ほどの大きさ、しかもその上を打刻子が縦横に移動して活字を選び印字するから、極めて印字スピードが遅く、15字/分。これと同じ仕組みで、我々の脳内の言語活動分野が作動していると見ることができる。もしそうだとしたら、我々の使う日本語の発語速度や会話速度が、欧米人より大幅に遅いことも首肯できよう。

かつて太平洋戦争を戦った米海軍の提督は、日本海軍の艦船内における指示命令の伝達速度が、米海軍のそれよりも大幅に遅いことを知り、作戦行動における情報伝達の敏速性で、米海軍が日本海軍にはるかに勝っていることを知っていた。米国の情報機関は、日本の文化、慣習を研究し尽くしていたが、動詞が文末に来る日本語の特質が、指揮命令を理解するうえで致命的な遅滞に繋がると見抜いていたのだ。

私たちの英語習得において、ヒヤリング・リスニングの難度が最も高いのも、脳の発話クロックのスピードの違いに原因があるかもしれない。

次に敬語の問題に移る。私たち日本人の心的傾向には、自分が尊敬されているか否かにこだわる傾向がかなり強いように思う。人は誰でも他人と同等かより優位でいたい願望がある。他人指向とは、周りの反応を見て自己を認識する性向であり、周りの他人の態度反応を必要以上に意識する。他人が自分をどう見るか、どう扱うかに極めて敏感なところがある。他人の評価に一喜一憂しない自己、アイデンティティというものが確立していないと云えばそれまでだが。相手に尊敬されているか否かを、言語と態度の両面で把握しようとし、それに拘る。タメ口という用語がこれを如実に示している。

人にしてもらいたいことは自ら率先励行しなければならないから、尊敬される願望が強い人間ほど、つまり自己のアイデンティティーが他人の態度に左右される人ほど、尊敬する他人に過剰なまでの敬意を示すことになる。その反動で敬意を持てない相手にに対しては、侮蔑的態度を露わにして自ら愧じるところがない。その結果、異様なまでに複雑な敬語表現をもつ民族になっている。

それは、他者と対等の相互関係をもつことで満足するのではなく、他者との上下の位置関係を確かめて安定する心性である。
対人関係において常に優位劣位を意識し、優位と扱われなければ不満を憶える心理を育む。つまり、上下の関係性を明確に態度に示さないと、双方が心理的に不安定になる気質というものが民族に定着している

長幼の序列を厳しく律する中国由来の礼法が、武士の礼法に取り入れられ、庶民の礼儀を規定するようになった歴史的経緯がある。すなわち、一才違いであっても兄姉を目上、弟妹を目下とする育児、躾が原因にあると思われる。更に近代日本の初等教育で、教師への尊敬的態度を、常に指導の形で強要されたことにも関係がある。漢字の師は、端から尊敬の語である。

自我が形成される中学校から高校となると 、指導する先輩は準教師的立場になり、尊敬的態度を受けて当然と考えるようになる。そうでないと、不満を覚える。こうして、先輩、後輩の序列意識が現れ学校に定着した。日本では、同年・同期・同輩の間でしか、対等な関係を築きにくい。彼も我も、上下を意識してしまうからだ。これは社会に出た後も続き、年齢や入学・入社年次の前後が1年の違いであっても、上下感を会話や態度で明示しなければならない。暗黙の上下感覚は日本人の社会生活を広く厚く覆っている。同輩だけが、上下を意識しないで済むので、日本人は同窓会、同期会が殊の外好きだ。

アングロサクソン民族は、長幼の違いに厳密ではないようで、年長というだけで尊敬に値するとは考えないらしい。兄弟姉妹の序列でも厳密でなく、elderとyoungerの分類はあるものの、通常はいちいち長幼を示さず単にbrotherとかsisterと呼び、年齢の上下を意識しないらしい。意識の上で、兄弟姉妹の長幼にこだわらないメンタリィティーのだろう。日本人ほど年齢序列に拘らない心性と言えるだろう。

日本の江戸時代には、土下座の慣行が定着していた。これも社会的な
身分の上下関係を明確にするための、上位階級からの下位階級に対する強制によって定着した。下位階層からの自発的態度ではなかった。「頭が高い」と云う表現は、下位身分の者の頭の位置が、上位身分よりも低くなければ許し難いすなわち無礼であるという意識の存在の現れである。大名行列を庶民が宿の二階から見下ろしたら、間違いなく打ち首だった。礼ということは、身分を弁えること、上位者の上座に立たないことと同義である。

日本人は自分が身分相応に扱われないと、甚だしく自我が傷つく。そして、無礼と怒る。無礼、すなわち相手が敬意を表さないのは、自分を上位と認めていないということで、自我が傷つき忿懣を憶える。この忿懣は単なる個人的感情だから、大上段に振りかざせない。 だから、社会的な取り決めである礼儀を欠いた行為に対する公憤を装って非難し糾弾する。陰湿である。無礼とは、自我が傷ついたことによる個人的怒りを社会的非難にすりかえるための口実であろう。

ため口と言う言葉があるが、ため口に敏感で、強く反撥するのは、敬意が感じられない言葉に自我が傷つくことを示している。それは、必要以上に他人に敬されていたい願望とか欲求が、私たちの心の内奥に潜んでいるからではないだろうか。過剰に愛を要求する願望なり欲求が、正常な愛情をもたらさないように、異常に敬されたい願望や欲求は、正常な人間関係を築く上で障害になる。 

自分にして欲しいことは人にもせよということで、日本人は日本語を使う過程で様々な敬語表現を考えだし、乱発し、過剰なほどに使い回してきた。これは自然発生的なもので、企んでできるものではない。

敬意をもって接して欲しいという個々人の心性が、日本語に多様な敬語の用法をもたらしたのではないかと思われる。それにしても、私たちが日常使う上位の人に対する敬語表現はそう気にならないが、高い身分とされる人に対する敬語表現、たとえば皇室の報道とか、大切な顧客に対する商人、大会社のトップに対する社員の敬語表現は、戦前ならともかく、戦後は誰もが使い慣れていない。

敬語のうちでも丁寧語は、私たちの民族の優れた言語感覚を示すものとして、大いに評価されて良いのではないかと思う。他人に対して誰にでも敬意を示して丁寧な言葉を使うのは美徳である。

問題は、尊敬語と謙譲語である。
尊敬語は外国語にも見られることで、これは
人類の歴史にともなって社会的に階層や序列が生じとともに発生してきた以上、何処の国にでも程度はともかく同じようなものがある。多用されるかどうかは別であるが。

問題は、謙譲語である。自らをへりくだる言葉である。自らを卑しめ貶めることにより他人を敬っていることを表す、中国民族の習慣に由来する表現である。自分を貶めることにより、相対的に相手を褒め持ち上げる。尊敬語は、ストレートな敬意の表現であるが、謙譲語となると、それが人の本性に適っていないために、この語法は何処か陰湿で鬱屈したものをもっている。心理的に屈折した敬意というものは、聴いていて時に嫌らしく感じられることもある。

人は誰でも本来自尊心をもつものであるから、本心から自らを卑下する人は居ない筈だ。それなのに使われる謙譲語というものは、形式であったり、迎合であったり、阿諛であったりする。

謙遜と卑下とは一見似ているが、明らかに心のポジションが違う。卑下には対象があるが、謙遜は対象をもたない。

尊敬語と謙譲語は阿諛と密着し易い。追従を生む。尊敬語も謙譲語も使わないで阿諛追従が可能か、一度試してみるがよい。
謙譲の美徳などというが、そんなものを美徳としているのは、世界全体を見渡して、日本くらいなものだろう。本家本元の中国では、すでに消えた。極端なそう敬語を多用するのは、北朝鮮で、これも歴史的に中国から学んだものだろう。

明治の立身出世主義も、敬されることへの異常な願望がもともとあったところへ教育が導入された成果であって、そのような素地が民族になければ、いしきがなければ、いかに教育しようとも、敬語が多用される社会ようにはならない。

敬することの裏返しは蔑することであって、優越感が劣等感の裏返しであることと同じく、コインの裏表である。
敬すること甚だしい者は、必ずその反動として蔑する心裡をも併せ持つものだ。
敬と蔑に異様なまでに執着する心理が、世界でも稀なほど厳密で多様な敬語を生み育て保存した来たのである。
敬でも蔑でもない、平準を保った平等の心裡、これこそが人間に相応しい態度というものだろう。

相手が謙る表現をすることで自己の優位感を意識する心理もナイーブではあるが、この謙る言葉や態度は、ひとつの教養であって、社会的に上位にあるものでも、多勢を相手にしたときには謙る。多勢は無勢より優位だからである。

敬語は現代では自由な発話の妨げ、率直なコミュニケーションの障害であると考える。敬語が難しいのは、外国人に通用しないのは、彼らにその意識がないからである。グローバル化の時代、丁寧語はともかく、尊敬語と謙譲語は、廃してよいのではないか。


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