この国のマスメディアの調査報道が減退し、伝聞報道主体に傾いてから、かれこれ半世紀近い時が経つ。日本の報道機関は、ジャーナリズムとしての健全性に黄色信号が点りつつあるのではないかと感じている。
それは報道機関が政権に宥和的に過ぎるということで、読者・視聴者など無数の顧客(人数)よりも、広告料収入(金額)に重きを置く営利企業としての体質がより鮮明になってきたからある。営利企業であっても、マスメディアには、マス(不特定多数)を対象に真実を報道するジャーナリズムとしての責務がある。それを等閑にしたら、民主主義は後退を余儀なくされる。
そもそも電波は誰のものか?電力と同じ国民の公共物である。だが、自然科学を統治の直前まで知らなかった明治の為政者は、電力・電波を国家の占有物と捉え、これを厳重に管理する方針をとった。世界でも類例のない厳しい電波管理はその時代に始まる。
国民の側も、電波はお上から配分を受けるものという観念が牢固として抜けない。発信の自由も受信の自由も、先進諸国より厳しく規制管理されている。放送事業者は、電波の割り当て権限を持つ政府の顔色を窺わない訳にはいかない。
保守党が長期間政権の座に在るのだから、政・官・財と並んで、マスコミが政権と協調的になるのは至極当然だろう。政権は批判を嫌うから、批判的な論調はマスメディアから影を潜める。
圧倒的に情報伝達力で優位を誇るテレビが、新聞を凌駕するようになって半世紀、私たちは毎日茶の間でテレビを見て暮らしているうちに、批判精神を無くし思考力を奪われ続けてきた。観ることと聴くことだけでは、思考力は鍛えられない。情報の一方通行に馴れ、発信する場をもたなかった時代の私たちの市民生活は、テレビに支配されていたと言っても過言ではないだろう。
インターネットの出現する以前の市民生活は、ある意味、情報鎖国下にあったと言える。市民が得るべき又は得たい情報が得られていたとは言い難い。無料の情報とは、そういうものだ。有料放送の公共放送1局の情報が、信頼に足るテレビ局だと思わされて来た。中立的報道機関などでなく、巧みに政府の意思を国民に浸透させる組織との認識は薄かった。
テレビの絶え間ない音声と映像は、人に考える暇(いとま)を与えない。視聴している間は、発想も思考も停止し、テレビの支配下にある。ドラマを観て情動が波打つ間も、思考は弱まる。報道番組の流す情報に浸かっている中での思考は、程が知れている。床屋談義のネタを仕込む程度である。
私たちは、発信の無い受信一方の、本質的には江戸時代と変わらない限られた情報環境の中で過ごしてきた。
畢竟テレビは、人から考える力を奪うツールである。目まぐるしく変わる画面と出演者やコメンテーターなどが発する言葉の洪水は、茶の間の人々の思考を一時的にストップさせ、広告宣伝を鵜呑みにさせるツールとしての機能を果たしてきた。
しからば新聞は思考のツールかというと、今日の新聞は、全くそんなものではない。調査報道が影を潜め、伝聞報道の羅列と広告記事で構成された紙面を読んで、思考を促される人はいない。
新聞が批判する力を弱め始めたのは、テレビが媒体としてのヘゲモニーを奪ってからである。広告効果で負けて以後の新聞は、取材内容も論調も、低下の一途を辿って来た。
私たちは残念ながら、正しいことを知る拠り所を失っている。溢れる情報は、巨大広告企業のあらゆる制作手段と手法で、歪曲されたり潤色されたり脚飾されている。確度の高い情報を得る術をもたない市民は、情報の洪水に流されるままなのだろうか?
記者会なるものを結成し、批判的メディアを排し、防波堤よろしく政権spokesmanを擁護し指弾を受け付けず、報道対象の政府機関と狎れ合っている。
政府機関発表の情報にべったり依存し、伝聞報道を拡散する反面、本来報道機関の使命であるはずの調査報道を怠っている。
機関発表の情報に頼れば、発信源との関係構築に熱心になるのは当然である。番記者などというものも、日本ならではの報道手法で、本来のジャーナリズムとは相容れないものである。
今日、テレビ局の良質な番組は週に数時間程度しかない。視聴料を視聴者から徴収している公共放送に至っては、どこのテレビ局よりも巧みに政権のプロパガンダの役割を強め、国営放送色が濃くなりつつある。新聞社は政権寄りが三紙、批判的な社の二紙のうち一社は昨今、報道姿勢がよろめいている。最早批判記事は月刊誌でしか見られない。これでは,国民の中に正当なオピニオンの形成は無理だろう。
日本の報道機関というものは、戦前のような国体の下では、政権のプロパガンダを務めるのが必然であるように思う。英国や米国の報道機関がそのようになることは考えられない。柳田国男が指摘したとおり、民族の心性が事大主義てあることは、幾千年来変わらないもので、私たちはこれに甘んじて生きていかなければならないようだ。
先祖たちの歩んだ道は、折れたり切れたりしないで、何処までも続いているものらしい。
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