1.宇佐神宮を訪ねるまで日本の神道の始原は遠く縄文・弥生の自然神信仰の時代に遡る。その頃は山や島そのものを神体として崇め、神は磐座や樹木など依代に一時的に臨在すると考えられ、社殿・鳥居などの建造物は一切なかった。 神話と伝承の古墳時代になって始めて、鳥居らしきものが現れたが、まだ社殿は無かったらしい。仏教が伝来し、仏が人の形をして人格をもつ存在と知った上代の人々は、初めて神も人格ある存在と考え、神 . . . 本文を読む
その41.論功行賞乱の後、大海人皇子が【近江宮】にあるときから付き従っていた舎人たちをはじめ、戦いに率先参加したり兵糧を供出して軍を支援し、時には朝廷に背いて参陣した豪族やその子弟たちに、それぞれの功に応じた冠位が与えられた。
これらの論功行賞とその後に確立した天武朝廷の人事を確かめていくと、天武朝の文官優遇、武官冷遇の方針が見えて来る。クーデターに成功し政権を確立した時から、大海人皇子は軍政か . . . 本文を読む
その3
1.近江路(琵琶湖東岸)での戦い7月7日、大海人軍の村国男依らは、息長横河(おきながのよこかわ、現在の滋賀県米原市梓河内付近)で官軍の将・境部薬(さかいべのくすり)を討ち取り勝利する。
7月9日、村国男依らの大海人軍が、琵琶湖東岸の鳥籠山(とこのやま、滋賀県彦根市の現大堀山)で官軍の秦友足(はたのともたり)を打ち取り勝利する。
7月13日、大海人軍の村国男依軍はさらに南下し、安河 . . . 本文を読む
その2
1.吉野脱出
672年6月24日、大海人皇子は倭古京(飛鳥)に舎人を派遣、留守司の高坂王に駅鈴(官馬の使用許可証)の発給を求めるが断られた。それを知ると、大海人は直ちに【大津京】に舎人を派遣し、高市皇子と大津皇子に決起を報らせ脱出を促し、伊賀・伊勢などの通過地点に舎人を先行させた。彼らは【美濃和蹔】(わざみ、現在の関ヶ原)の本営までの経路確保と在地兵力を糾合する使命を帯びていた。
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壬申の乱
その1
近江の古代史探索を思い立った4年前には、「壬申の乱」について詳しい知識を殆ど持ち合わせていなかった。昔の教科書では、きわめて簡略な記載しかなかったと記憶している。日本でもどこの国でも、歴史教科書には、詳しく書きたくない事柄が数多くあるのだろう。
謎に包まれた日本の古代史への入り口は、「壬申の乱」にあると見て、想像力を巡らせ、推断独断で事変を俯瞰してみたい。
壬申の乱の通説 . . . 本文を読む