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書評「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」  宮崎正弘

2013-12-23 15:48:12 | 時評


杜父魚文庫ブログ
書評「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」  宮崎正弘
2012.08.10 Friday name : kajikablog
真珠湾の半年も前からアメリカは日本空爆を準備していた。ルーズベルトの陰謀、次々と歴史的資料と証言がでてきた。

<<加瀬英明 & ヘンリー・S・ストークス共著『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(祥伝社新書)>>

著者の二人、ともによく存じ上げているので、中身は読まなくても分かる筈だった。いつも正しい史観に立脚して、的確な歴史的分析と判断を展開されるから安心して聞くことが出来るが、こんどの本は従来の延長線上にあるとはいえ、異色である。

まずヘンリー・ストークス氏がかく言う。

「従兄はインドに展開していたイギリス軍部隊に所属していたが、昭和十六年なかばに、ビルマ(現ミャンマー)のラングーン飛行場に降り立って、我が目を疑った。

多数のアメリカ軍戦闘機と爆撃機が翼を連ねているのを、目の当たりにしたからだ。日本が真珠湾を攻撃する六ヶ月前のことだった。従兄は職業軍人だったから、その意味を即座に理解した。

それは、アメリカが日本に戦争を仕掛ける準備をしていること以外のなにものでもなかった」(本書166p)。

そうだ、あの戦争は日本を罠にはめてアメリカが仕掛けてきたものであり「狂人」(フーバー元大統領はFDRをこういった)の仕業である。

そしてフライングタイガーと命名されるアメリカ空軍は「志願兵」を偽装し、さらに「蒋介石の空軍」を偽装した。遠くビルマ、雲南戦線。そして長沙陥落後の湖南省西南部で、多くの日本兵が犠牲となったが、相手はシナ軍ではなくアメリカ空軍だった。

「シナ軍」とは名ばかりのアメリカの傭兵だったというのが真相である。
 
加瀬英明氏はこう言う。

「私は1957年(昭和32)年に、晩年のマッカーサー元帥をニューヨークのマンハッタンのウォールドルフ・アストリア・ホテルにあるペントハウスの邸宅に訪ねたことがあった。後にこのときのことを『文芸春秋』(1967年三月号)に寄稿したが、マッカーサー元帥は私に煙草をすすめ、震える手でマッチを擦って、火をつけてくれた。

マッカーサーは、かなり耄碌していた。それでも『日本は軍備を拡張して、自由アジアの一大軍事勢力として極東の安全に寄与しなければならない』と語調を強めた」(154p)。

加瀬さんは続ける。

「東京裁判は司法的にみせかけて、体裁をつくろったリンチだった」
「アメリカが日本に戦争を強いた大きな原因の一つが、人種差別だった」

敗戦の八月十五日は目の前、いまこの稿を書いているとき、テレビは長崎でヘイワの呪文を唱える人たちの集会を実況中継している。過ちは繰り返しません、と。

杜父魚文庫


『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』
パールハーバー
http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-194.html
前回引用した『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』の共著者、ヘンリー・S・ストークス氏には、ネーサン・クラークという従兄がいたそうだ。1941年半ば、英国軍人だったネーサン大尉は、ビルマのラングーン飛行場で驚くべきものを目撃した。それは多数のアメリカ軍戦闘機と爆撃機が、翼を連ねている様子だった。真珠湾攻撃の、半年前のことだった・・・。

今ではすっかり知られるようになったことだが、当時のアメリカは(テレビヒーローが良く言う)「本当は戦いたくない」のに、日本が侵略をやめないから立ち上がった正義のヒーローではない。同書によれば、フランクリン・ルーズベルト大統領が、日本に敵対する政策を最初に打ち出したのは、真珠湾攻撃の5年前、1936年(昭和11年)のことだそうだ。中立国のはずのアメリカは、裏で戦闘機とパイロットを「義勇兵」として蒋介石に提供していた。

その後も、ルーズベルトは「中立法」を無視して蒋介石を援助し続けた。
1940年10月には海軍情報部提出の、日本を対米戦争に追い詰めるための提案書を承認。
1941年2月には、早くも敗戦後の日本の処理を研究する機関を国務省内に発足。
日米交渉の裏では「B-355」なる日本本土爆撃計画が承認され、真珠湾攻撃の5ヶ月前に、150機の爆撃機と350機の戦闘機が(中国空軍に偽装されて)来襲する手はずになっていた。

こんな事実を聞いて、例えばこんな説明を信じる人はいないだろう。

昭和16年6月、日本の中国侵攻に反対するアメリカ、イギリス、オランダは、日本への石油輸出禁止などの経済制裁を加えた。日本はその状況を打破するために、12月8日、ついに真珠湾攻撃に踏み切った。
(『男たちの大和/YAMATO』ナレーション)


ぼくらが散々聞かされた開戦理由、ABCD包囲網から南部仏印進駐に進み、ハルノートを拒否して真珠湾攻撃・・・という経済的理由は、嘘ではないが真相の全てではないようだ。その裏には、何が何でも日本と戦争したいルーズベルトの姿があった。日米交渉など、とんだ茶番だったわけだ。

だが、それだと我らが(笑)「自虐史観」って、崩壊しないか?
そもそも自虐史観ってのは、「憐れで気の毒な弱者」中国を「悪の侵略者」日本が襲ったので、「正義のヒーロー」アメリカ合衆国が颯爽と現れて叩きのめし、素晴らしい日本に生まれ変わらせてくれた、ありがとうアメリカ様!というストーリーだったはず。でも、ルーズベルトが日本に向けつづけた憎悪を知って、彼がウルトラマンや仮面ライダーのようなヒーローだったと思える日本人はいないだろう。アメリカもまた、「侵略者」だったんじゃないか。しかも日本とは比較にならない、狡猾で残忍な・・・。

同書によると、当時のアメリカは「中国がアメリカの勢力圏のなかにある」と見なしていたそうだ。中国は、アメリカから多くの宣教師を受け入れていたし、市場の巨大さも魅力だった。ルーズベルトは切手の蒐集を趣味としたが、清朝末期や古い香港の切手が自慢だった。それに対して日本は「アメリカに媚びることなく、伝統文化を頑固に守り、キリスト教文化に同化しない異質な国だった」。

2001年に公開されたアメリカ映画『パール・ハーバー』には、御前会議と思わしき作戦会議の様子が、ぼくら日本人の理解を超えた表現で描かれている。

劇中において、東條英機、山本五十六ら軍部の重鎮達による真珠湾攻撃の是非を問う作戦会議が野原に置かれた卓で行われている。しかも子供がその近くで遊んでいたり、「軍機密」と大書きした看板が掲げられている。現実には家屋の用意できない最前線でもなければ屋外で会議が行われることなどあり得ず、真珠湾攻撃のような重要な決定は最終的に屋内の御前会議の場で密室で承認された。また、近くに設置された鳥居には旭日旗が上からぶら下げられているが、日本では過去も現在も国旗をそのように掲げる習慣はない。(Wikipediaーパール・ハーバーより引用)


この映画の監督はマイケル・ベイ。
『ザ・ロック』『アルマゲドン』『アイランド』『トランスフォーマー』など、それなりに面白い作品を作れる人なんだが、日本への無知・無関心はハンパでない。向こうにも『Tora! Tora! Tora!』(1970年)なんて映画もあるのに、おそらく何一つ調べる気さえなかったのだろう。
まさに加瀬先生の言う「アメリカに媚びることなく、伝統文化を頑固に守り、キリスト教文化に同化しない異質な国」、そのまんまのイメージで描かれたのが、『パール・ハーバー』での日本ということだろう。

本書の類書に「開戦は30余年前から想定されていた!」と帯にある『日米衝突の根源 1858ー1908』(渡辺惣樹 草思社 2011年)がある。
ペリー来航からポーツマス条約あたりの「アメリカ史」がメインなんだが、その半世紀にアメリカで起こったことにこそ、日米衝突を不可避にする要因があった、という主張だ。
それを具体的に言えば「国内産業保護を基軸とするアメリカン・システムの綻び、イギリスを筆頭としたヨーロッパ諸国との領土紛争、国内の人種問題。南北戦争、米西戦争、移民排斥、ハワイ併合、フィリピン領有」など。

だがぼくが一番面白かったのは、まさにアメリカが初めて日本を知った、その時のことだ。
それをアメリカにもたらしたのは、ペリーに同行していた紀行作家、ベイヤード・テイラー。香港、南京、上海などに滞在したテイラーは「支那の街ほど嫌悪感を感じさせるところはない」と吐き捨て、不潔極まりない街と怠惰な人間をさんざんに罵倒する。

ところが日本に来るなり、テイラーは一変する。

「船上に上がってきた日本人は、蒸気機関の動きを熱心に見ていた。そこには畏れの表情は微塵もなかった。(中略)質問を続ける彼らの見せた落ち着いた上品な振る舞い。洗練された人々だけが見せることのできる態度だった」

「役人たちの顔はオリーブ色で、頬も唇も血色が良かった。目は大きく、支那人のように斜めにずれていなかった。額は広く表情は豊かで、彼らの心が生き生きとしていることの証しだった」

「ペリー艦隊の士官たちは一様に、こうした日本人が完璧な紳士であることを認めていた」

帰国したテイラーは講演に引っ張りだこで、1858年から67年の9年間に全米で600回の講演をこなしている。話題の中心はもちろん、「極東の謎の国」日本だ。

「テイラーは日本に着くまでは、日本人は支那人と同じで軽蔑の対象になると考えていた。しかし日本人は彼が驚くほど支那人と違っていることを発見する」

「1854年のマサチューセッツ州ケンブリッジ市での講演は支那人と日本人の比較で始まった。そしてそれは後者が前者よりも、能力や将来性においてそうとうに優れている、という主張で締めくくられた」

以上は、当時のアメリカ人が、支那人より日本人を褒めてるからと喜んで引用しているわけではない。
それとは逆に、ここで褒められていることにこそ、後に同等のライバルと見なされ、完全に叩きつぶされる遠因があったんじゃないか、ということだ。支那人はWASPを頂点とするヒエラルキーの最下層を構成できるが、日本人は日本人であるからこそ、そこから逸脱するだろう。そんな予感は的中し、日本は自力で「名誉白人」の座を掴み、国際連盟の五大国に成長した。白人社会にとって、いよいよ恐怖の対象となった。
ならばもはや、文明の存亡を賭けた激突しかない!

・・・みたいな。

【追記】
『日米衝突の根源』の「おわりに」には、「コロンビア要塞跡」という砲台の写真が掲載されている。撮影場所は、ワシントン州とオレゴン州を分けるコロンビア川の北岸。
1904年に築造されたこの砲台群の砲口は、なんと太平洋に向けられているそうだ。日本がまだロシアと戦っていた頃、すでにその準備は進められていたというわけだ。



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