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「綾瀬はるか『戦争』を聞く」

2019-02-18 21:41:27 | 政治


韓国文在寅大統領は、パンドラの箱を開けた。
絶望が、韓国を覆うにはまだまだ、早いが、

慰安婦と言う韓国売春婦達は、同時に二日市保養所と言う
歴史の扉も、開け放った。

佐世保市針尾島の浦頭埠頭、
満州、中国や南方からの引揚者百三十九万六千四百六十八人が、ここに上陸した。
日本最大の引揚港である。


社会
2018.08.16
「綾瀬はるか『戦争』を聞く」で明かされた、満州からの引き揚げ女性に強制された性接待
https://wezz-y.com/archives/57557/2

行為のあとは、膣からうがい薬をホースで子宮まで入れて洗浄しなければいけないような状況で、性病などにより4人の女性が死亡。日本に帰ることができなかったという。
 同開拓団は600人中400人が生還した。彼女たちの犠牲は多くの人の命を救ったのだが、しかし、そこまでして開拓団を守った彼女たちに対する周囲の視線は冷たいものだった。
 人身御供になった女性のひとりは、帰国後、<『減るもんやないし、お前たちいいんじゃないか、ロシアの人と付き合えて良かったやないか』、なんてことを言う人もある>と心ない対応を受けたと明かし、また別の女性も<弟がいつも言いました。『姉なんか地元で嫁入りしようと思ったって、誰ももらってくれんわ』って。満州で汚れたような身体を誰ももらってくれやせんで>と証言する。あまりにもひどい話だ。
 こういった状況下、命からがら日本への引き揚げ船に乗る頃には妊娠してお腹が大きくなり始めている女性もおり、思い悩んで船から海に身を投げる人も少なくなかったという。
帰国後に妊娠している女性は、博多の港に着くと、二日市保養所という施設に連れていかれた。
 二日市保養所では、当時違法だった中絶手術が行われており、そこで500人近くの女性が手術を受けたという。
 二日市保養所で行われていたことは秘密にされ、記録もほとんど残されていないため検証ができなくなっているが、そのような施設がつくられた背景には政府の考えがある。番組では同種の施設にいた医師が<異民族の血に汚された児の出産のみならず家庭の崩壊を考えると、これら女性たちの入国に際しては、これを厳しくチェックして、水際でくい止める必要がある>との命令が政府からくだされたと証言していると明かす。
 以上のことからわかるのは、軍隊、政府、開拓団の男性幹部、権力をもつ者たち全員が徹底した無責任体質で自己保身にひた走り、本来であれば守るべき者たちを、むしろ最前線に立たせて心身に傷を負わせていたという事実だ。
 戦争中という異常な状況のなかでそういった構図は前面化したが、「弱い者が守られるどころか最も虐げられる立場に立たされる」というのは、ブラック企業の例が端的に示す通り、2018年の現在でもなんら変わることなく続いているものだ。そういった意味では、70年以上前に起きた「過去」の話ではなく「いま」に通じている問題でもある。



封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録
2016年07月15日 03:00
元毎日新聞ソウル特派員 下川正晴 月刊正論8月号
http://seiron-sankei.com/9866
 福岡県筑紫野市にあった「二日市保養所」の悲劇を知ったのは、昨年初めだった。
 図書館から借りて来た慰安婦関連の本を眺めているうち、突然、「満州や朝鮮からの引揚げの途中で、ソ連兵などにレイプされた多数の日本女性の中絶手術が行われた」場所として、眼前に現れたのだ。手術は五百件近かったという。
 驚いた。私は数年前、この近くの太宰府市に二年ほど、母の介護のために住んだことがあるからだ。母は平成二十年、二日市保養所跡地に立つ「済生会二日市病院」で亡くなった。九十二歳だった。彼女は旧満州からの引揚者である。軍人だった父はシベリアに連行され、長男(当時五歳)は引揚途中で病死した。
 私は一九九二(平成四)年当時、毎日新聞ソウル特派員だった。宮澤首相(当時)の訪韓を前にして、朝日新聞の「奇襲報道」で慰安婦問題が炎上した時、韓国の論調を批判する記事を書いたが、無力だった。
 私は二日市保養所の史実も、「水子供養碑」の存在にも気づかず、満州からの引揚者だった老母を看取って、この街で火葬し、鹿児島の故郷に埋葬した。「二日市保養所」を初めて知り、戦争と性被害に関連する事件が、肉親の周辺で多数起きていたことを改めて知った。
 それ以来、「二日市保養所」は、脳裏から離れなくなった。多くの人々の犠牲の後に、私は戦後四年目に生まれた。そして六十歳をはるかに過ぎて、「生まれることのできた幸運」に気づいたのである。
 二日市保養所の「水子慰霊祭」は、毎年五月十四日に行われていることも分かった。今年三月、予備取材で二日間、現地を訪れて確認した。
 四月末、黄金連休を前に東京・品川駅前の書店で、松田賢弥『影の権力者/内閣官房長官・菅義偉』(講談社)を立ち読みした。「菅の父親は満州からの引揚者」という記述が目に飛び込んだ。近くのホテルに行き、ロビーのソファで読み始めた。秋田県出身の菅は、元満鉄社員の子供である。満蒙開拓団に出かけた同郷の村人には、集団自決の惨劇があったという。引き揚げた孤児たちが品川駅に着いた写真も載っていた。
 ふと顔を上げると、壁際のソファに小説家の五木寛之がいた。中年の男女と話している。朝鮮からの引揚体験を書いた彼の「運命の足音」を読んだばかりだった。
 菅は一九四八年生まれで一歳年上。五木は一九三二年生まれ。私を含めた三人の共通項は「引揚者の子供」ということだ。思わぬ偶然に「引き揚げ問題の取材準備を急げ」という声が、聞こえたような気がした。
 新聞データベース(Gサーチ)で調べた。終戦直後、満州や朝鮮から引き揚げる途中でレイプされた日本人女性の妊娠中絶手術を行った二日市保養所の悲劇を、朝日、毎日、読売、産経の各紙はどう報道したのか?
「二日市保養所」を、検索語として入れる。結果は朝日十、毎日六、読売五、産経一の計十二件だった。少なすぎる。データベースには一九九四年から二〇一四年まで二十年間の記事があった。それ以前の記事は不明なものの、この問題を軽視する傾向は大同小異と思われる。嘘を交えた「慰安婦問題」の洪水のような報道に比べると、あまりに記事が少ない。二日市保養所の地元ブロック紙、西日本新聞でも三十三件だ。多いとは言えない。
 全国紙四紙の扱いをみると、ほとんどが西部本社版(九州・山口)である。東京本社版に掲載されたのは、なんと、朝日が二回(社会面と家庭面)、読売が一回(社会面)、毎日ゼロ、産経一回(オピニオン面)だけだった。東京とソウル暮らしが長かった私のアンテナに、「二日市保養所」が受信できなかったのは無理もない。そう思えるほどマスコミの扱いは冷淡だった。大方の新聞読者にとっても同じだろう。
「満州・朝鮮からの引揚げ体験は、日本人が経験した最後のグローバル体験である」。鄭大均(首都大東京特任教授)は、北朝鮮からの引き揚げを記録した清水徹「忘却のための記録」(ハート出版)の解説で、日本人の引揚体験が「今やえらく矮小化されて」いると批判した。鄭の解説によると、ある引揚体験者は、朝日新聞の記者から最近、「炊き出しや衣料・寝具の配給があるはずなのに、なぜ多くの犠牲者が出たのか」と質問され、絶句したという。
 私が日本人の引揚体験に強い関心を持つようになったのは、個人的な体験に加え、原爆や空襲、沖縄戦など「戦争報道の定番」とは違い、それが日本人の歴史意識から脱落している事態に気づいたからだ。抜け落ちた体験を前提に、歴史観や世界観が語られている。日本人の引揚体験は、シリア難民や「脱北民」と同様に、国家が瓦解する中で生まれた世界史レベルの体験である。今年は、満州からの引き揚げが本格化して七十年目だ。しかし、その体験を追体験し、将来のための教訓にしようという動きはあまりに少ない。
 皇室は、六月二十三日(沖縄戦終結)、八月六日(広島原爆)、八月九日(長崎原爆)、八月十五日(終戦)を「記念日」としてきた。マスコミ報道もこの歴史観に追従している。だが、なぜ日本が「あの無謀な戦争」を戦ったのかは、深刻に検証されない。日本人が異郷から引き揚げる途中に、何が起きたかは忘却の彼方にある。ここに日本の「平和主義」の落とし穴があると思うようになった。
 五月十四日、土曜日。午前十時から、筑紫野市二日市温泉街の福祉施設「むさし苑」駐車場にある水子地蔵前で、慰霊祭が仏式で行われた。参列者は約四十人。済生会二日市病院関係者が主催者席に座っていた。
 私の隣席の中年女性が、膝に人物写真を置いて読経に聴き入っているのに気づいた。一段落したところで、尋ねた。写真の人物は、満州からの引揚者である亡き両親だった。「母親が戦後、二日市保養所で働いていたらしいのです」。彼女は昨年、初めて水子慰霊祭に参加し、その後、佐世保港も訪れた。「勉強を重ねるに連れ、女性と子供たちの犠牲の大きさに、胸を締めつけられる」。今年は舞鶴に行くつもりだという。「水子たちのおかげで、私は生きているような気がする」
 六十一歳の元警察職員だった。彼女の自宅を訪ねた。「知りたい、という気持ちだけです」。昨年、ラジオで偶然に博多港に引揚記念碑があるのを知った。翌日、見に行った。それ以来、彼女の「引揚地再訪の旅」が始まった。
「引揚げ」「二日市」。断片的な言葉しか、生前の両親からは聞いていない。彼女のノートには、その苦闘の跡が綴られていた。
「戦後七十年、私は還暦を迎えた。戦争を歴史を先人を、両親を知る。今を生きることが今の私に出来ることだ。一日一日が大切だ。ずっとずっと平和でありますように。大切な宿題を遺してくれて、ありがとう」
「大切な宿題」とは、両親らの世代も問い続けた「生きることの意味」であろう、と私には思えた。
 彼女にならって、慰霊祭の終了後、佐世保市針尾島の浦頭埠頭にある引揚記念碑を訪れた。事前に、同地にある引揚記念館に電話をかけた。「JRハウステンボス駅で降りて、タクシーで来るしかない」との返事だった。引揚げとハウステンボス。国内有数の観光施設のある場所は七十年前、大量の引揚者の群れで埋め尽くされていた。その事実をいま、知る人は少ない。
 満州、中国や南方からの引揚者百三十九万六千四百六十八人が、ここに上陸した。日本最大の引揚港である。引揚者たちはここから「南風崎駅」まで七キロを歩き、故郷に向かった。私の母親から聞いたことがある駅名だが、実際に彼女がここに来たのか、記憶は定かでない。
 引揚記念館からタクシーで約十分走った場所にある「釜墓地」には、フィリピンから運ばれて来た遺体や佐世保引揚げ後に亡くなった人々の遺体約六千五百体が荼毘に付された後、埋葬された。ハウステンポスのシンボルタワーを背景に、その慰霊碑が立つ。隣は米軍針尾弾薬庫の軍人住宅である。巨大タワーと日の丸、星条旗、海軍旗が林立する奇妙な光景だ。針尾島の電波塔から、開戦の「ニイタカヤマノボレ」が発信された。佐世保は今も「戦争と追悼と平和」が交錯する要衝の地である。
 翌日。知人のクルマで、博多駅近くにある引揚孤児施設「聖福寮」跡地、博多港の引揚記念碑を訪ね、福岡市市民福祉プラザの引揚資料展示コーナーにも行った。取材しながら、私の胸に沸き起こって来たのは、「どうしてこうも違うのか」という怒りに似た感情だった。
 慰安婦問題と「二日市保養所」。私が関わるようになった二つの歴史は、実は、同じ人物の書いた記事が「再発掘の発端」である。
 千田夏光というルポライター(故人)がいる。彼は一九七〇年代、「従軍慰安婦」の著作で慰安婦問題に火をつけた。在日朝鮮人がこれをフレームアップする本を書き、「慰安婦=二十万人」説を広めた。朝日新聞が虚偽に満ちたキャンペーン記事を書き連ね、日韓間の外交問題に浮上した。周知の通りである。
 大連生まれの千田は、一九七七年に出版した単行本『皇后の股肱』(晩聲社)に、「二日市・堕胎医医院」を収録した。初出は、月刊誌「現代」一九七二年九月号の「悲話・大陸引揚者胎児大量処理事件」だ。サブタイトルは「囚人兵に凌辱され帰国した娘や妻たちの凄惨な終戦史」だった。これらの表現からも分かるように、彼の記事は「中絶手術」に焦点を当てたスキャンダラスなルポルタージュだ。しかし千田が「慰安婦」を書き続けたのとは対照的に、彼の「二日市保養所」取材はこれっきりで終った。出版社からの「追加注文」もなかったのだろう。
 千田の著書が契機となり、二日市保養所跡地に一九八一年三月、「仁の碑」が建てられた。元高校教諭の尽力によるものだが、碑文は医師や看護師の努力のみを顕彰するものである。千田氏の筆法が手術を醜聞として描いたのとは対照的だが、被害女性や水子への思いが足らないのは双方ともに同じだ。
 既に述べたように、二日市保養所で起きたこと、その原因となった満州や朝鮮での性被害の実態解明は、マスコミによって大きな関心が払われることなく、冷遇され続けた。「植民地支配」の実証的報道も欠如していた。佐世保と並ぶ引揚港だった博多港には百三十九万二千四百二十九人が上陸した。しかし福岡市には引揚記念館がなく、展示コーナーしかない。その内容もお粗末だ(後述)。
だが福岡には「二日市保養所」を追いかけるテレビ局ディレクターがいた。RKB毎日放送の上坪隆である。
 彼は一九七七年、TVドキュメンタリー「引揚港・水子のうた」「引揚港・博多湾」を制作し、これを著作『水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録』(現代史出版会、一九七九)として上梓した。彼の父親は終戦まで、満州・通化の憲兵隊長だった。通化は戦後、日本人が大量惨殺された「通化事件」の舞台としても有名である。十歳だった上坪は、その現場を目撃した。「千人にちかい屍体が裸にされ凍土の上をすべらされ、川の中に捨てられるのも見た」と書いている。
 上坪は母親と四人の兄弟妹とともに、一九四六年末、佐世保港から故郷の鹿児島に引揚げた。父親は戦犯として中国に抑留され、受刑した。舞鶴港に帰国したのは、一九五八年だった。
 上坪は『水子の譜』に、「二日市保養所の事実を葬ってしまっては、昭和の戦争が何であったかを伝えることができないのではないか」と書き記した。中国戦犯問題を含む上坪のドキュメンタリー全般については、改めて取り上げる必要がある。ここでは二日市保養所と引揚孤児報道における彼の業績のみを紹介する。
『水子の譜』は一九九三年、現代教養文庫(社会思想社)に収録された。その「文庫本のためのあとがき」で上坪は、「出版後、ある書評で『日本人の被害の側面のみが強調され、加害者としての側面が稀薄である』という主旨の指摘があった。今回、再版のために読み返してみて、私はそうとは思わなかった」と記述した。一九七〇年当時の時代風潮と思い合わせて興味深い。歴史記録者としての上坪の「執念」さえ感じさせる一節だ。
 現在、『水子の譜』は単行本も文庫本も、古書店で五千円ほどもする希少本だ。一般読者が購入するには高すぎる。だが、この本以上に包括的な「二日市保養所」の研究書もない。ここでは二部構成からなる同書の内容を紹介しつつ、その概要を説明したい。
 第一部は「聖福寮の孤児たち」だ。「聖福寮」は、日本最古の禅寺と言われる博多駅近くの名刹「聖福寺」内にあった。病気にかかった引揚孤児の治療と保育が行われた。寮長の山本良健医師は京城(現在のソウル)生まれ。昭和二十一年末、京城からの病人引揚者を引率して博多港に上陸した。京城では、旧京城帝国大学医学部の教職員や教学生らが作った移動医療局が、引揚者への救護活動を行っていた。その中心人物が、後にアンデス文明の発掘で有名になる文化人類学者の泉靖一(当時は京城帝大法文学部准教授)である。
 緒方龍(緒方竹虎の実弟)は、父親が檀家総代だった聖福寺を寺院ごと借り受け、引揚者用の総合病院を作った。これで三八度線―ソウル―釜山―福岡を結ぶ医療組織が出来た。京城帝大出身の医師・田中正四(後に広島大学教授)を庶務課長に、仙崎、舞鶴、佐世保、広島の引揚港のほか、送出港の中国コロ島にも支部を置いた。彼らの組織力と行動力は、驚異的だというしかない。
 いったん福岡に引き揚げた泉靖一は、押し寄せる引揚者救護のため、昭和二十一年早春、玄界灘を越えて再び朝鮮に潜入した。当時、博多港には一日平均約四千人の引揚者が上陸していた。
 TVディレクター上坪の仕事ぶりで驚かされるのは、「聖福寮」の孤児たちを追跡調査し、引揚から約三十年後の一九七七年七月三十一日、孤児たちの「同窓会」を実現させていることだ。約二十人の孤児やその子供たちが「聖福寺」に集まった。この時の模様は、彼のドキュメンタリー「引揚港・博多湾」(横浜の放送ライブラリーで無料視聴できる)に映像化されている。
続きは正論8月号でお読みください
■ 下川正晴氏 昭和24(1949)年、鹿児島県生まれ。大阪大学法学部卒業。毎日新聞ソウル支局長、論説委員、韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授などを歴任。





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