硝子戸の外へ。

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世界文化遺産 国宝 姫路城

2016-03-04 21:38:25 | 日記
世界文化遺産 姫路城を訪ねる。修復工事はまだ続いているが真に美しいお城である。
お城巡りという妻の趣味に付き合うにつれ、防御の工夫や造形、工法に興味を持ったのだけれども、今は城の歴史の動きに移行し掲示物をじっくり読むようになりました。そして、今回も姫路城の年表をじっくり読んでいるとある部分に引っ掛かったのです。

それは、太平洋戦争の際、城下は焼け野原となったが城だけは奇跡的に残ったという文章。一度気になるとどうも落ち着かない。見学もそこそこに「なぜだろうと」城内を歩きながら考えた。

そこで、なぜ姫路城が激動の時代を超えることができたのかを、僕なりに仮説を立ててみました。

まず、姫路城の城主に歴史的主要人物が就いていた事。それによって明治に入っても廃城令を免れた。さらに、姫路城が軍の管轄になった事。そして、軍の手を離れ文部省の管轄になり、国宝に指定された事が大きいように思いました。

これでは、あまりにもざっくりしすぎていて分かりませんね。そこでこの骨組みを元に妄想を働かせ肉付けしてみました。

姫路城の構造は守りが鉄壁であることがとてもわかります。でも、戦国時代には「空からの攻撃」は想定されていません。また、戦国時代での視界の良さは、敵に対してアドバンテージがありましたが、上空からの攻撃だと格好の的となります。また、攻撃を仕掛ける際、敵の急所を外すことは考えられないとすると、「意図的に外された」と推測できます。

攻撃を仕掛けるにあたり、航空写真での分析や地上での情報収集は欠かせません。地上での情報収集とはもちろん「スパイ活動」の事です。
スパイ活動というとなんだかフィクションの世界と言う印象を持ちますが、戦中を潜り抜けてきた人たちの話を聞いていると「スパイ」の存在を感じる事があります。一つの例として、一見、兵器製造をしているとは思えないというところで製造を行っていた処、ある日戦闘機が飛来し艦砲射撃を受け、死ぬ思いをした。と言われていたかたも、「スパイはどこにいるか分からない」というようなお話をされていました。
その話から考えると、軍事活動に関わる場所は詳細に調べ上げられていたと推測できます。もし、仮に管轄が軍部にあり、軍事活用されていたなら、攻撃対象になるはずであるから間違いなく叩かれていたでしょう。そう考えた僕はひそかに感動しました。文部省の管轄に移行し、国宝に指定され、大修理が行われた事は、赤松貞範をはじめとする数々の武将、そして秀吉や千姫、さらにはお菊さん等、城と共に生きてきた多くの人達が導いたのだと。
そして、その力はリポートを作戦本部に挙げた人物にも影響を及ぼしたのかもしれません。日本の文化に対し造詣の深い人が担当だったとしたら「姫路城はシンボルであるから残すべし」としたのかもしれません。
そう考えるのは、京都が空爆を受けなかった事を考えるとあながち外れではないような気がするからです。

そして、世界文化遺産に登録され、栄華の夢を今もなお感じることが出来るのは、やはり城と共に生きてきた人々の見えざる力が働いているのだと思うと、姫路城の美しさに負けぬくらいの浪漫を感じませんか・・・。なんということでしょう! まさに「奇跡的」という表現に間違いないではありませんか!!


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