硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

津久井やまゆり園での事件をもう一度考えてみる。

2018-07-27 21:04:39 | 日記
津久井やまゆり園の事件から2年。昨日、今日と、新聞は紙面を大きく割いて現状を伝えていた。

そこから知りえたことは、加害者の考え方は現在においてもゆるぎないという事であったけれど、世の中は、あの事件を通して障碍者に対しどう変わったのかは伝わってこない。

気の毒だったねとか、可愛そうだったねとか、加害者は狂っているというありきたりな情報は読み取ることは出来たけれど、具体的にどのような支援をするべきかは現在も模索中のようである。
理想論としては社会資源を必要とする被保険者の心の声を正確に聴き取り、自己決定によってサービスを提供できれば良いのだけれど、意思疎通のとれない人には困難な選択となり、結果として家族としては行く末を考えたうえで社会福祉に頼らざるを得なくなるのは否めません。
だから、その事情を知らない多くの人が、頭では分かっているけれど、どこかで線を引いてしまうのは、人の感情として自然なように感じます。

しかしながら、人権を擁護する為に、最低限の生活を保障する為に、社会福祉に頼らなければならない人が増加してゆけば、その現場で、他者の人生や生活を支える人たちに負荷がかかる事も事実であり、業種の構造から、低価格でのサービスを求めている人が多いので、賃金も抑えられていて、物価の上昇は、支える人たちの生活を圧迫してしまいます。
そう考えると、サービスを支える人たちの人生もあるのだから、支える人たちの選択肢も、必然的に発生します。
その選択肢を僕なりに考えてみると、自身の生活の豊かさを取るか、他者の幸せのために地震を犠牲にし身を粉にして仕えるか、もしくは、主たる人の収入が支えにある人が、主として支えてゆくという選択肢があるように思えますが、現在は、それすらも、ぼやけてしまっているように思えます。

それに伴う問題は、質を維持する事の難しさであり、宗教的思想のような気持ちをもって、身を粉にして社会資源を必要とする人たちを支えたいという人達ばかりではないので、支える人たちが、疲弊してゆけば、自身より弱者な者に強く当たってしまう事は、人の感情としてはごく自然なものであり、それをプロ意識が足りないという概念で否定すれば、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れてしまうのも分からないでもありません。
その時、どのように心が動くかを想像してみると、すっぱりと福祉業界から離れるか、自己改善を試みるか、適当に受け流し自身を護るか、誰かに依存するかという選択に進むように思う。

誰もが持っている心の弱さを、さらけ出され、否定されれば、理性で留めていた感情が溢れ出すのも無理はないけれども、福祉の仕事に従事する者を育ててゆく為には、人が持っている自尊心の高さは千差万別である事を理解し、他者からの否定によって感情がどのように溢れ出すかは予測不能であることを、否定する側も否定する前によく考えなければならないと思うけれど、誰もがそのような忖度が出来れば世の中はもっと穏やかであるような気がします。

少し話の筋はそれてしまいましたが、否定され、次の選択を余儀なくされた者が、進むべき道筋を考えると、失意の中で彷徨い続けるか、否定された事で、自尊心が傷つけられたと感じた者は、自身を護る為に、責任を転嫁し、怒りに執着し、自身の正しさを知らしめてやろうという考えに至るのではと思う。

そこで、多くの人が抱く線を、より強固に引いたのが、加害者の彼だったのかもしれないけれど、差別や偏見によって生まれた悲劇が繰り返されてきた歴史から、彼の考え方は誰もが抱く「黒い感情」であることを自覚していなければ、この事件を乗り越えていけないのではないかとも思うのです。

もし、乗り越えられないようであれば、社会福祉の現場が最終的に落ち着くところは、少し歪ではありますが、資本者が、個人的になんらかの問題があり、他の職種では従事する事の出来ない「危なくない人」を中心に雇用し、共産主義的な社会を構築し、被保険者を支えてゆくという形に落ち着いてしまうような気がするのです。
でも、それが優しい世界の形であるのかもしれません。