硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

謝罪会見。

2016-04-11 17:48:31 | 日記
謝罪会見を観て思ったことを一石。

人生の中で幾度とないチャンスを自らの過ちで閉ざしてしまうのは身から出た錆であることは分かるけれども、幾度とないチャンスを取り上げてしまう社会の狭量さには少し疑問を感じる。
生きていれば、社会で活動していれば、誰だって過ちを犯すし、誰かを傷つけてしまうものであり、それが常習的ならば、罪に対して罰を与えねばならないと思う。しかし、殺人や傷害ならば問答無用であるが、それ以外の過ちならば、厳重注意位で留めて置く事が社会には必要でないかと思う。

乙武さんの事にしても、彼の素行をリークした人は本当に正義であったのであろうか。
彼の素行を知り、憤慨した人達は本当に正義なのだろうか。

確かに彼の行為は不貞であるし、障碍者だからといって特別に扱ったら彼の人生のテーマを自ら逸脱することになるけれども、四肢全廃という特徴は現実であり、そこは配慮してもよいのではと思う。もし、彼が議員さんになれば、障碍者の人達、その家族の声が国政に届きやすくなるはずであるから、彼の過ちに目を閉じておいてもメリットも多いはず。

それとも、彼は神でなければならなかったのか。

仮に、それを否とする人が彼の素行のリークに働きかけたのだとしたら、国政は弱者のためには働きかけないという事になるまいか。そこには本当に正義があるのだろうか。

赦さない社会というものは、自身をも赦してくれなくなることを分かっているのだろうか。

近頃の殺伐とした事件を観察していると、その要因は「不寛容」というよりも「嫉妬深さ」が大きく作用しているように思えるのですが、豊かな社会というものは、人々の間に確執を生じさせ、ひいては嫉妬心をも育ませるものなのかもしれない。