硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

保育園落ちたさんの波紋 その4

2016-03-25 11:21:01 | 日記
保育園落ちたさんの希望をかなえるためにはお金と場所が必要ですが、肝心の子供たちを支える人をどのように確保すればよいのかをしばらく考えていました。

職業の地位を上げる為には、賃金を上げ、良い人材を募り、本当に心からその仕事が好きである人があつまる魅力のある職業にしなければならないでしょう。でも、経済が緩やかな下り坂に差し掛かかり、且つ、個人主義が確立されつつある日本では難しいのではないかと思うのです。

そこで、考えられるのは社会面で時々目にする「移民を受け入れる」という方法論。

人口減少に歯止めをかけ労働力の確保を解消する方法としては、即効性がある。しかし、治安の悪化や失業率の上昇など懸念される未来もあるけれども、多様性を認め共生してゆける社会を構築せねば全てにおいて行き詰まってしまう可能性も大きい。

そこで思ったのが、中東や西欧で平和を渇望しているイスラムの心優しき民を思い切って受け入れるという方法。

社会で活躍したくても、「戦闘」が許してくれない為に、埋もれてしまっている優秀な人たちもたくさんいるのであるから、そういう方たちの為に窓口を設けて育児現場で活躍してもらうというのはどうでしょうか。争いが憎しみしか生み出さない事を身体的に理解している人達であるから、幼子を我が子のように優しく接してくれるのではないだろうか。
イスラム教は宗派が多様化しすぎて、表面上での出来事がクローズアップされがちですが、戒律に留意しながら実社会で生きてゆこうと試みる人達もたくさんいます。

また、現代社会では宗教離れの為、お寺がなくなる地域も増えているのだから、偏見を抱くとしたら宗教的な偏見というよりは、人種として偏見を持つという事でしょう。でも、ある日突然家族の誰かから、元恋人、言葉も交わしたことのない他人から命を奪われる世でもあるので、同じ国籍を持ち同じ言語を使い同じ容姿であったとしても、心から信頼はできないでしょう。だから、社会や平和は狭量な人物の執拗な執着によって崩壊するけれども、知性を正しく用いる事の出来る異国の人を信頼してみるという方法も良いのではと思う。
日本なら歴史的軋轢も皆無であるから、メディアから流れる偏った情報に囚われなければ、彼らのアイデンティティーを受け入れられるのではないかと思う。

限定的な移民の受け入れは、国際社会から非難されるかもしれません。また、移民を受け入れれば、今までにはなかった問題も起こるでしょう。でも、それは歴史のほんの一部の出来事でしかないと思うのです。幕末からたった150年でここまで世が変わったのですから、その150年を鑑みれば、変化の為に生じる痛みや葛藤は避けて通れないとも思うのです。

そう考えると、経済と利便性を向上し続けるには、先人がそうしてきたように、私達も、涙を呑んで手放す事、受け入れる事が必須なのではないかと思うのです。