人吉市観光:隠れ念仏参拝地図

2013年11月30日 | 人生は旅である。

熊本県部の南部、人吉市および球磨郡は、相良藩700年の歴史を物語る数多くの文化財が今に伝えられています。
(相良藩:藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)この地の地頭に任ぜられた。その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。)
なかでも、日本人の心、生き方に大きい影響を与えた一向宗(浄土真宗)の教えを360有余年の長きにわたる弾圧にも屈することなく守り通した歴史が受け継がれてきた地でもあります。その「隠れ念仏」の命を賭けて絶やすことのなかった信仰の灯を物語る数々の史跡が残されています。このたび、縁あってそれらの場所を訪れました。
訪れて判ったのが、それら「隠れ念仏」の史跡を正確に案内する地図がなかった、ということです。web検索をしても現場写真と説明のサイトはありますものの、地図が無い。人吉駅の観光課の女性も「正確な地図が無いんですよね」と言いながら、観光地図に赤ペンで「この当たり、この当たり」とマルをつけてくれたものを頼りに探して回ったことであります。
考えてみればなにせ「かくれ」念仏ですから、街のど真ん中や、峠道の脇にあるわけも無く、それぞれ村のはずれにひっそりとあったのでした。
そこで、ここでは、実地訪問を元になるべく正確な地図を提示しようとしています。
人吉は、温泉の街。また、肥薩線の観光列車を使った九州南部観光の中心で、多くの人が訪れるとのことですが、この「隠れ念仏」を目的にいらっしゃる方はなかなかいないとのこと。
できれば、これらの史跡をお尋ねになられる方が増えますことを念じまして。

こちらが、人吉かくれ念仏参拝マップとなります。

google map

さて、人吉の一向宗弾圧とかくれ念仏の概要については、熊本県観光課のこちらのページに譲りまして、それぞれの史跡を写真にて、紹介いたします。

浄土真宗本願寺派 本願寺人吉別院
一向宗(浄土真宗)解禁後、明治11年(1878)本願寺人吉説教所として、創建。明治36年(1903)「光尊寺」と改称、同時に本山別院と定められました。
人吉隠れ念仏人吉隠れ念仏

十島仏具焼却地(相良村柳瀬十島)
人吉球磨一円の真宗信者の家から仏像仏具を没収して焼却された地。現在も焼却灰が残っていると言われていますが、それらしきものは見つかりませんでした。
人吉隠れ念仏人吉隠れ念仏

花立。
球磨川をはさんで十島仏具焼却地(相良村柳瀬十島)の対岸にあり、十島で焼却される仏像仏具から立ち上る炎や煙を球磨川を挟んだ対岸から、信者が花を立て、香を備えてお別れの礼拝をしました。岩盤が球磨川にせせり出した地で、確かに隠し石仏があったのだろうなぁと思わせる場所です。
人吉隠れ念仏人吉隠れ念仏

合戦峰(かしのみね)伝助殉教の地
人吉は観音巡りが有名です。このお堂も合戦観音と呼ばれるその一つです。伝助さんがなくなられた場所として、墓碑が建立されています。
人吉隠れ念仏

殉教者・山田村の伝助の墓供養碑
民家のお墓の敷地に伝助さんと祖父、父と三代の墓があります。位牌は、本願寺人吉別院に預けられています。
人吉隠れ念仏人吉隠れ念仏

与内山(よねやま)の首塚聖地
伝助さんの法弟子、秋山和七郎は、獄門に処せられ晒されていた伝助さんの首を夜陰に乗じて盗み出し、自宅近くの石地蔵に埋葬しました。
人吉隠れ念仏人吉隠れ念仏

山江村歴史民族資料館
禁制に関する遺品、資料が展示されています.サイトはこちら

十四人淵(じゅうよったりぶち)
貞享4年(1687)球磨川の支流、川辺川の尾曲淵に、信州門徒たち14人が細紐で互いに体を結び合い入水したと語り継がれています。
人吉隠れ念仏人吉隠れ念仏

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