メイドチョコレートシフォンケーキ:AKIHABARA MAID

2009年08月30日 | 人生は旅である。
先日の東京旅行は、どちらかといえば下町方面への観光旅行でありました。

で、当然、秋葉原乗換えのついでにちょっと降りて街を雰囲気を見てきました。
相変わらず、アキバはアキバでありました。5分も歩けば、私のようなお登りさんは息苦しくなりますね。

で、お土産だけ買ってそそくさと総武線で両国方面に移動した私でありました。

お土産は、メイドチョコレートシフォンケーキです。包装にはご覧のようないわゆる"萌え系メイドさん"のマンガが印刷されています。

箱の一部が三角に切り取られてメイドさんがのぞいています。


中身は、クリームの入った手のひらサイズのシフォンケーキであります。


いまさら、私がここで、アキバ文化についてどうのこうのいえるものではありませんので、紹介というか、たんなるツリということで・・・失礼しましたぁ。



MORI ART MUSEUM [アイ・ウェイウェイ展] にいたピンクのミニワンピースの彼女

2009年08月26日 | 人生は旅である。
大きな写真はこちら

アイ・ウェイウェイ展の作品の周りを歩き回っていたピンク色のミニワンピースを着た彼女は、まるで幼い少女が公園の遊具で遊んでいるようだった。
私がオブジェとオブジェの間に入ると彼女はその向うに回りこんで見えなくなる。
私が隣のオブジェを回り込んだら、すでに彼女は二つ向うのオブジェの向うに・・。
まるで鬼ごっこのように楽しめる芸術作品。

疲れた私は、オブジェ群の端から写真を撮った。

彼女はいづこ? 答えは下の写真をクリックすれば、わかる。



アイ・ウェイウェイ展-何に因って?
が、2009年7月25日(土)~11月8日(日) 六本木ヒルズ森タワーの森美術館で行われている

写真撮影を試験的に許可した美術展だという。だから、こんなblogも上げることができる。



作家:アイ・ウェイウェイ  
これらの写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。

ツイッターで追いかける東京一泊旅行:tokyobookmark:写真で一巡り

2009年08月25日 | 人生は旅である。
date time
Aug 22 Sat 8:12 浜松なう

Aug 22 Sat 9:26 まもなく品川なう

Aug 22 Sat 10:01 蒲田から池上線なう

Aug 22 Sat 11:52 石川台なう
大崎にて

江戸東京博物館にて

Aug 22 Sat 17:52 飯田橋エドモンドホテルなう

Aug 22 Sat 22:09 浅草仲見世通り横でイタ飯いただきました

Aug 23 Sun 9:12 飯田橋、東葉勝田ってどこだ

Aug 23 Sun 10:42 隅田川ラインなう

Aug 23 Sun 11:06 日の出桟橋からお台場へ航路なう
Aug 23 Sun 11:32 お台場なう

Aug 23 Sun 11:33 #tokyo-bookmarkなう
Aug 23 Sun 11:45 ガンダムなう

Aug 23 Sun 13:17 台場切符売り場長蛇、りんかい線で脱出。新木場なう

Aug 23 Sun 13:49 八丁堀なう
Aug 23 Sun 14:22 築地本願寺参拝。東銀座なう

Aug 23 Sun 15:41 ヒルズタワーなう

Aug 23 Sun 16:22 恵比寿なう。Kwarasiさん今回は失礼
品川にて

Aug 23 Sun 17:24 新横浜なう。帰宅します!


東京一泊旅行:tokyobookmark:予告編

2009年08月23日 | 人生は旅である。
東京の中でも、昔の江戸と今の江戸を感じる場所を中心に一泊二日の急ぎ旅をしてまいりました。

取り急ぎ本日は予告編として、写真を二つ上げます。

どこを回ったのかは私のtwitterつぶやきを呼んでいただければ一目瞭然であります。

↓は帰りの新幹線から見た富士山。2009年8月23日、17:55:52撮影


絶対矛盾的自己同一にいたる道(その1)

2009年08月16日 | 人生はメンタルだよな
写真は通称"特攻花"

生きているということは、死を包含する。
生きているとは、せつなせつなに死んでいくということでもある。
ありとあらゆる生命体は、個体としてはいつかは死ぬ。それについて、なぜという質問の付け入る隙間は無い。なぜ人は死ぬのか、少なくとも私には知ったこっちゃ無い。
人間という生命体(それ自体が人間の認識であるが)が認識するこの世界において、個体が定期的に死滅し、しかしながら、その個体の所属する集団が、個体の生存期間を超えて存続するものたちを"生命"として認識しているだけかもしれない。
いずれにしても、生命体としての人間の個体達が共通して内包しているのは"死ぬ"ということなのである。そして、厄介なことに、死にいつ至るかがわからないというのも、生命体としての人間である。
ふたたび、人間の認識としての時間軸において、蝉という生命体(と人間に認識されるもの)は死に至る時間が定義されている。蝉は夏に地中から這い出て羽を持ち、樹液を飲みながら地上での短い時間をすごしていく。そして、秋にはすべて死に至る。
まさに、生が死を包含している。彼らに死という自覚があるかどうか、同じ目を持たない人間は知るよしもない。しかし、人間の目には規定された時間の中に生き尽くす蝉の生き様に生を感じることができるのである。
すなわち、生を認識して、私にも限られた生をより強く認識することができる。
しかし、個体としての人間=私、はいつ死ぬことやら、幸せなことにわからない。いつ死ぬか=残存時間は誰にもわからないのだ。
統計的には、長い生を続けてきた人間は残存時間は短い。しかし、確率的にはすべての人間に次の瞬間に死ぬ確立は0(ゼロ)ではない。