地下路線の出口:大阪:大阪市営地下鉄:阿波座

2012年05月27日 | 地下路線の出口
大阪市営地下鉄中央線は、阿波座を出発して西に向かうとほどなく、地上に姿を現わします。

地上に出てすぐにあるのが、木津川を渡る短い橋です。
写真では、列車がまさにその橋をわたっていくところです。

車の走る道が中央大通と呼ばれていますが、写真の手前側(私の立っているところ)の住所が「本田(ほんでん)」、中央大通を挟んで向こう側が「川口」という住所になります。

川口という地は、旧川口居留地(きゅうかわぐちきょりゅうち)がある場所で、1868年大阪開港と同時に、大阪市西区川口付近に設けられた外国人居留地があったエリアであり、東は横浜の旧居留地、西は神戸の旧居留地とともに、日本3大旧居留地(長崎居留地は、元祖として別格扱いとします。)と言うべき場所であります。

しかし、こちらの川口旧居留地は、観光スポットになっているわけでもなく、唯一、日本聖公会川口基督教会が名残をとどめるだけであります。



一方、本田地区ですが、これが名にしおう「松島遊郭」の地です。
wikpediaによりますと、通称は「松島新地」。江戸時代の新町遊廓に代わる大阪の新たな遊廓として、木津川と尻無川 の当時の分流点である寺島(現在の大阪市西区千代崎1丁目・2丁目)に明治に成立した、とありますが、第2次世界大戦後は、その場所をここ本田の地に移しているとのことです。

そんな、大阪沿岸部の歴史(過去)の地と、大阪の中心部である本町(今)を結ぶ地点に地下路線の出口があるのです。
私がこの「地下路線の出口」というテーマでこだわる「今と昔の接点としてのトンネルの出口」という景色を写真から受け取っていただければ幸いです。

さて、その「松島遊郭」の現在でありますが、このblogの趣旨から離れますので詳細は書きませんが、南の飛田新地と同じように、いにしえの遊郭そのままに女郎とやり手ババが店先で手招きをするという景色は、今も真昼から展開されているのであります。

この日は、小雨の降るなか、暗鬱とした気分の私は、店々の彼女たちの姿を見て、その良し悪しは別にして「体を張って生きていく姿」に少なからず勇気をいただいて、阪神なんば線九条駅に向かったのでありました。







地下路線の出口:大阪:阪急電鉄:天神橋筋六丁目

2011年01月10日 | 地下路線の出口
久しぶりの地下路線の出口シリーズであります。

阪急電鉄千里線(せんりせん)は、大阪府大阪市北区の天神橋筋六丁目駅から大阪府吹田市の北千里駅までを結んでいます。ここ、天神橋六丁目駅は、1969年に大阪市営地下鉄堺筋線との相互直通運転開始に伴って地下駅となり、もとの地上駅の少し北側から地上へ路線が上がっていきます。

天神橋筋は、大阪市北区の中之島のほぼ東端にある天神橋から、まっすぐに北につづく、「日本最長の商店街」として有名です。

天神橋は、大阪天満宮の南の大川(旧淀川)に掛かっていたことから名づけられている通り、この天神橋筋も天満宮とは、切っても切れない中です。最近では、天満天神繁盛亭という常設の落語小屋も出来て、人通りも増えてきているようです。

さて、その大阪天満宮=天神さんですが、この季節はやはり学問の神さんとしてとても来訪者が増えています。境内には、合格祈願の絵馬が重なり合って奉納されています。

合格しても不合格でも、すべての受験生にとって、その次の力になれる結果が得られますようにと、天神さんにお願いしました。

「学問の天神さんといえば、商売のえべっさん。」  つづく・・。




阪急電車 (幻冬舎文庫)
有川 浩
幻冬舎

阪神なんば線:九条駅の地下路線から西九条に上がる。

2010年07月04日 | 地下路線の出口



後出しになりますが、阪神なんば線の九条駅から西九条駅への勾配は、40パーミルに達するということです。この件はこちら

どの位の勾配かを今回車窓から撮ってみました。なんば線の九条地下駅を出てすぐ、地下路線から、急勾配をなんだ坂こんな坂と列車が上っていくのが感じていただけると思います。

しばらく上っていくと安治川を越えるのですが東側、中之島から梅田方面の高層ビル街を見ることが出来ます。そして、西九条駅到着となります。

阪神なんば線についての考察は4年ほど前にこちらに上げましたが、甲子園に住む私は、なんば線開通後決行難波に行くことが多くなりました。南海沿線の人が神戸に行く機会が多くなったとも聞きます。奈良方面から神戸に行く方も増えたとか。

鉄道はやっぱり人と人をつないでいくのですね。




阪神なんば線:九条西高架

2009年12月13日 | 地下路線の出口
阪神なんば線の西九条駅は、とても高いところにあります。
何しろ、JR西九条駅が高架の駅で、さらにその上に阪神なんば線西九条駅がありますから、結構な高さです。
そこから、南東に向かって400メートルほどの安治川をこえると、一気に九条の地下駅に向かって下っていきます。

近鉄の関連公式サイトによりますと、この勾配は40パーミルに達するということです。
この駄blogの1ジャンルであります地下路線の出口でもご紹介しました、日本の近郊私鉄屈指の急勾配路線の神戸電鉄のそれが最大50パーミルといいますので、結構な勾配といえるでしょう。

そして、この高架線は騒音対策もあってU字型のがっちりとした壁に囲まれています。とても、地下線から出てくる列車の写真は気軽に取れる状況ではありません。

ということで、今回は、このU字擁壁にはめ込まれた樹脂部分からほんのりと見える列車を撮影してみました。たんなるいいわけですが


地下路線の出口:京都:阪急電鉄:西院駅

2009年02月01日 | 地下路線の出口
ここが、地下から地上へつづく日本最初の鉄道路線であるようです。

日本で最初の地下鉄(厳密には旅客を乗せる地下鉄)は昭和2年(1927年)開業の東京地下鉄銀座線であることは、よく知られてことですが、最初の開業区間が上野-浅草間で現在も両駅間共地下ですね。
一方、昭和8年に大阪では、日本初の公営地下鉄(こんなことで日本初と胸をはることも無いと思うけど)が梅田-心斎橋間に開業。こちらも、全線地下で最初は、御堂筋に空けた穴から車両を紐を結んで吊り降ろしたというのも有名な話。
で、京阪電鉄(当時)がこの西院駅から大宮までの地下路線を開通したのが昭和6年で、日本で2番目の地下鉄であったということです。

ここは同時に、私がこだわっている「地下路線の出口」発祥の地でもあります。

厳密には、1925年6月5日(大正14年) 宮城電気鉄道(JR東日本の現・仙石線)の初代・仙台駅が地下駅になっていたようなので、地下路線への入り口があったかもしれませんが、現存しないので、対象からはずします。

なぜ、京阪電鉄が大阪(天神橋:現天神橋筋六丁目)から京都を結ぶ路線の終点部分を地下にしたか、いなければならなかったかは、用地買収費用の問題などからとされています。まさに、「街という場」へ入り口として、地下路線へのトンネルが掘られたというわけです。

他の理由として、西院駅のすぐ東側を走っている京福電鉄嵐山線(当時嵐山電車軌道1910年(明治43年)開業)の線路を横切るという技術的な課題もあったことであろうと、推察できます。京福電鉄嵐山線西院駅については、別に立てます。

さて、日本最初の地上路線から地下路線に入るトンネルの入り口には「天人併其功」 (天と人が力を合わせてこの工事を成し遂げたの意)というレリーフが掲げられています。これは、当時の社長太田光照氏直筆の書と言われています。
そしてその下には雄雄しい鷹の彫り物が飾られています。日本にも数あるトンネルの入り口に動物の彫刻が置かれているようなものは、多分、他にいくつも無いのではないでしょうか。

近代化とは、先を進む地域と、昔からの地域をどうやってつないでいくかという課題を一つ一つ解決していくことであったのであろうと感じます。




参考資料
・京阪電車の歴史
・太田光照社長
・東京地下鉄の歴史
・大阪地下鉄の歴史