「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」壱岐の島 勝本港

2022年06月07日 | 人生は旅である。
「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」河合曽良
乞食とは、本来は仏教の托鉢の意とある。芭蕉との旅姿は僧侶のそれであったことはよく知られている。彼らの旅は乞食のそれであった。
曽良は、江戸幕府の巡見使の一員として1710年江戸から壱岐対馬に向かって、人生最後の旅を始める。当時62歳。
芭蕉は、1694年にすでに死没。曽良は、芭蕉との乞食生活の思い出を置いて、九州へと旅立ったのではないか。
壱岐の北端の港、旅の中に身を置いて、来し方を見つめながら、はるか対馬を望み、曽良は何を見据えていたのだろうか。

壱岐の島  勝本港 




Happy Christmas

2021年12月19日 | 人生は旅である。

 

さて、クリスマスですね。
いかがお過ごしですか。
また、一年が終わり、新しい年が始まろうとしています。
クリスマスだから、
知り合いも、大切な人も、老いも若きもみんな
楽しんで欲しいな。

さて、クリスマスです。
弱きにも、強きにも、持てるにも、持たざるにも
先は長い人生(*)
だから、
黒も、白も、黄も、赤も
すべての争いをとめてみましょう。

まさにまさに、メリークリスマス!
そして、謹賀新年。
 新しい年がおだやかで良い一年でありますように。


みんなが、望めば、戦争は終わる。

John Lennon "Happy Christmas (War Is Over):玉田意訳


(*)「先は長い人生」:原文 "THE ROAD IS SO LONG."
 " The world is so wrong" とするものもあるが、
悲観的過ぎるので、上を採った。




バリヒンドゥーの特色

2016年11月12日 | 人生は旅である。

インドネシア方面へのインド文化の流入は西暦一世紀位から始まっていると推察されている(亮仙, 河野1994 *1)。

はっきりとした記録に基づけば、8世紀後半から9世紀半ばにかけて、ジャワ島に栄えたシャイレーンドラ王国が、大乗仏教の大仏蹟をジャワ島中部のボロブドゥールに立てたことから、ヒドゥー伝来前に仏教が存在したことが確認される。
バリ島の本格的なヒンドゥー化は、西暦10世紀末にジャワのクディリ朝の支配下に入った時からと推定されている。

バリ島ヒンドゥーは、ヒンドゥー諸派の中でもシヴァ神を重視するシヴァ教とされるが、上記の環境の影響もあってか、仏教(といってもヒンドゥー仏教とでもいうべきもの)との併存が認められる。バリにある仏教徒の総本山にあたるのがシラユクティ寺院である。

バリ・ヒンドゥーの特色として上げられるのは、祭司の二層化とその役割である。

まず、聖職者としてバリ・カースト制度のなかでバラモンを形成しているのが、プダンダと呼ばれる第一階層の祭司である。
プタンダは、マントラをとなえるなど儀礼を通じてシヴァ神との同一性を実感することにより、儀式を司る。

シヴァ神との一体を目指すのは、人間は本来本質的にシヴァと同じでありながらそのことを忘れているために輪廻にや苦しみの存在があるとされ(p.66)、宇宙の創造原理ブラフマン(梵)と輪廻する生命の本体としてアートマンを立て、アートマンとブラフマンの本質は本来一つである「梵我一如」を説くヴェーダの信仰(バラモン教)を受け継いでいる。

また、プタンダの重要な機能は「聖なる水」を作り出すことにある。プタンダにはシヴァのプタンダであるプタンダ・シワと仏教のそれであるプタンダ・ボダがあり、大きな祭典のときなど、並列して儀式をおこなうこともある。

プダンダ


プダンダ・シワ(シワ教の祭司、写真左右の僧)。   プタンダ・ボダ(仏教の祭司、写真中の僧)2016年10月12日バリ・ボン村にて



祭司の二層目は、プタンダとはカーストも儀礼法も違う、非バラモンのプラマンクーという宗教的職能者である。

彼らは、マントラをとなえながら、花などを神に捧げるという単純な儀礼をおこなう。一般の住民が寺院に参拝するときに、礼拝の後に聖水と米を分け与えるのもプラマンクーの役割である。


プラマンクー  プラ・ブサキにて


*1亮仙, 河野,「神々の島バリ―バリ=ヒンドゥーの儀礼と芸能」,里山堂,1994/1/25

バリ島くつろぎの空間 「ビラ・ビンタン」


インドにおける宗教と、仏教とヒンドゥー教の生成

2016年11月11日 | 人生は旅である。
インドにおける宗教の起源は、インダス文明の遺跡や遺物にまでさかのぼることができる(西尾秀生2001*1 )。

インダス文明の遺跡から出土した多くの印章に刻印された動物や樹、蛇神や卍印などヒンドゥー教や仏教に現れるさまざまな「記号」が確かめられている。また、女性像が示す農耕民族特有の地母神の出土物や、火葬の痕跡など、インダス文明のヒンドゥー教や仏教への影響を確かめることができる。

紀元前十五世紀ころに中央アジアからインド西北部に侵入したアーリア人は、村を形成し火の祭りを行った。そして、紀元前十二世紀を中心に、神々に対する賛歌の集成である、『リグ・ヴェーダ』を始めとした四つのヴェーダ *2が編纂された。
これらのヴェーダには、賛歌の対象となる神々、賛歌の形である歌詠、祭詞、呪詞が含まれており、宗教の基本要素である、信仰の対象(神)、信仰の対象と私との関係性(信)、信仰の形(儀式)が揃わっている。

ヴェーダをよりどころにする宗教的活動をヴェーダの宗教と呼ぶこともあり、この宗教環境を「バラモン教」と近代ヨーロッパでは呼んだ。

バラモン教の生命観は、「業」に起因する「輪廻」にあり、輪廻からの解放である「解脱」を究極の目標とする。また、解脱の形は「宇宙の原理であるブラフマン」と「生命の本体であるアートマン」が合一することにある、とする。特に「業と輪廻」は、後のヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教での生命観に取り入れられて、現在に至っている。

仏教は、紀元前五世紀ころのバラモン教が正統とされた宗教環境の中では「沙門(異端の思想家)」の一人であるゴータマ・シッダルータによって起こされる。

西尾(2001)は、他に6人の沙門を紹介している(p.58-p.62)が、その中の一人 ニガンタ・ナータプッタはジャイナ教の開祖である。ジャイナ教は、業と輪廻と解脱を解くものであり、ゴータマの説いた原始仏教との類似点が指摘されている。

仏教成立後、紀元前四世紀から紀元後四世紀にかけて、ヒンドゥー教の聖典である二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマ―ヤナ」ならびにプラーナ文献が成立する。これをもって、ヒンドゥー教も聖典を基に体系化されていく。

仏教とヒンドゥー教は共に業と輪廻と解脱というヴェーダの信仰(バラモン教)の生命観を引き継いでいるが、根本的違いは解脱の主体の広がりである。両方ともに、解脱に至る道を「自らの行為によるもの」「精神的体験を通じた智慧によるもの」そして、「信仰によるもの」の3点を挙げている 。

そして、「信仰による解脱の道」すなわち他力救済が、バラモン階層に限定されていたそれまでの宗教観を一変させ、カーストを越えた汎宗教環境を生じせしめたと理解することができる。

インドで成立した仏教は東進して日本に至り、ヒンドゥー教はインドネシア・バリ島に定着した。

年表にすると、下のようになる。
"


*1 西尾 秀生,「ヒンドゥー教と仏教―比較宗教の視点から」,ナカニシヤ出版, 2001/1
*2 「リグ・ヴェーダ」、「サーマ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」、「アタルヴァ・ヴェーダ」

東京駅と武雄温泉楼門の十二支写真をそろえてみた:辰野金吾

2014年02月08日 | 人生は旅である。

東京駅の丸の内駅舎ドーム天井には、干支をかたどったレリーフがあります。 ところが、ドームにはそのうち、卯(う)、酉(とり)、午(うま)、子(ね)の4つが欠けています。 その四つが、武雄温泉楼門で見つかったのは、2013年4月のこと。 この二つの建築物を設計した辰野金吾の故郷である佐賀(唐津市出身)と東京を結ぶ“十二支の謎”として注目を集めました。 楼門にある、卯、酉、午、子がそれぞれ東西南北をあらわす干支であり、楼門天井に方角と合致して配されています。一方、東京駅の八角形のドームにも8つの干支の方角と対応してレリーフが配してあります。 晩年の辰野の遊び心ではないかと言われています。
こちらの記事を参考にしました。

私の現地取材によりますと、武雄温泉楼門は三つ建てる設計図があるのです。一つの門に四つ、三門で都合十二の干支の絵が天井に配置され、豪華にもしゃれた温泉空間がそこに出来上がる予定であったということです。
武雄温泉新館は楼門と並んで大正時代を代表する国指定重要指定文化財の一つです。

大正時代は近世日本において、華やかの中に文化的芳醇を感じる時代。そんな時代の空気を感じながら、辰野金吾が残した十二支をご覧ください。