かぐや姫:紀家:高野槙

2006年09月24日 | 人生は旅である。
「竹取物語」は、藤原家に没落された紀家が、史実を元に藤原氏に対するうらみつらみをフィクションとして描いたものだと言うことを聞いたことがありました。いったいそれは、本当なのだろうかと、ネット上でいろいろな文献を探っていました。
結論的には、その話自体を補強するような話は出てきませんでした。ただ、美しい女性が言い寄る男たちをものともせずに、自分の思うところを成し遂げていくというコンテキストの上に、多くの日本の伝説があるのだということがわかったように思います。
<写真は道場寺門前の階段です。>

----今回参考になった文章----

私が聞いた話に一番近い文章
http://www.rak3.jp/home/user/kyanos/
竹取物語は、実は 文学に秀でた才能のあった紀貫之が、藤原氏の暗躍を世に知らしめるために書かれた文学だという説が、あります。
かぐや姫に求婚する5人の、殿上人のうち もっとも卑怯で策略家の人物を、藤原不比等をモデルに、残る4人も当時から200年ほど前にさかのぼった、天平時代の人物をモデルとしているそうです。
名門であった 紀家は、やはり藤原の陰謀によって 没落させられた経緯があり、その真実をどこかに記しておきたかったようです。
藤原の直系にあたる 藤原南家の長女であった 中将姫様が かぐや姫のモデルではなかろうかということです。


藤原不比等
父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対するの処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。
だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
草壁皇子の息子、697年軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。また後室の橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89

壬申の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の一つと見る説もある。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指しており、大海人皇子の不満を高めていった。さらに、大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、乱の発生へつながっていったとしている。


髪長姫と道場寺そして、かぐや姫
http://www.pluto.dti.ne.jp/~msk/kami.html
 『かみながひめ』という『竹取物語』によく似た物語がある。この話は道成寺縁起をベースに有吉佐和子氏が詩情豊かに、そして子供にわかりやすく書かれた再話(ポプラ社刊)である。
①髪長姫の生い立ち
不比等は巣にかかっていた髪の長さから姫の美しさを想像し、苦労してさがし、とうとう日高の里の髪長姫をさがし当て、自分の養女とした
②妻どい
多の男性が求婚するが、ふさわしい相手がみつからない。
③入内
文武天皇がうわさをきいて髪長姫を妃にし、聖武天皇を出産する。
④道成寺縁起
髪長姫は(故郷への思いにさいなまれて憂鬱になり:著者補足)天皇に頼んで観音様と母親をまつるお寺を建ててもらった。それが道成寺である。


小野小町
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-kajin.htm
紀貫之が『古今和歌集』仮名序の中で「近き世にその名聞えたる人」として、小野小町、在原業平、遍昭、文屋康秀、喜撰法師、大友黒主の6人の名をあげ歌風を評したことから、小町は後に「六歌仙」と呼ばれる内の1人になった。
在原業平の求愛さえ撥ね付けたという鉄壁ガードの小町の後半生において、
小町が寵愛を受けていた仁明天皇は40歳の若さで他界。天皇の後継者争いで、第一皇子を推した小野一族は、藤原氏をバックに付けた第二皇子に敗れて家運が傾いてしまう(この第一皇子の母は紀家出身。紀貫之が小町に同情的だったのはそこにあるという)。



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