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信念とは

2009年06月18日 | 人生はメンタルだよな
今日、臓器移植法改正案の法案Aが衆院を通過した。
記事

基本的な考え方は「脳死は人の死である。」にある。

人の死は脳死にありとすることが真なるか偽なるか、それはわたしには判らない。

ただ、「脳死は人の死である」そして、「人の死で救われる生がある」と言いつづけた人達の信念に心から敬意を表すものであります。

御文章五帖目第一通 (通称・末代無智章)に関する一考察

2009年01月03日 | 人生はメンタルだよな
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。<br>
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。<br>
かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。<br>
あなかしこ、あなかしこ。<br>

「御文章ひらがな版・拝読のために」から (平成11年発行・本願寺出版社)

末代無智章の大意

末法の世にあって、まことの智慧もなく、在家の生活をしているものたちは、一心に阿弥陀如来をたのみたてまつって、ほかの神や仏に心を向けず、ひたすらみ仏におまかせしなさい。

そのものを、どんなに罪は重くとも、かならず阿弥陀如来はお救いくださいます。

これが第十八願、すなわち念仏往生の願のこころです。

このように信心を決定した後は、寝てもさめても、命のあるかぎりは仏恩報謝の念仏をすべきです。
(五帖第一通)



この御文章は、他の多くの御文章と同じように、二種深信の形をお示しいただいていると理解できるでしょう。

  • ともがら(私たち)は、末代無智の在家止住であること。
  • 阿弥陀如来は、衆生(私たち)を必ず救うということ。


    そこで、

    ”ともがらは、こころをひとつにして”の一言が大変重要な一文になっていると感じます。


    「御文章ひらがな版・拝読のために」
    では、"こころをひとつにして"を"一心に"と現代語訳されています。

    三省堂提供「大辞林 第二版」によりますと
    一心とは、
    (1)二人以上の人が心を一つにすること。
    (2)一つの物事に集中した心。専心。
    とされています。

    (1)の意味で解釈すると、 ともがら(複数のひと)が同じ心を持つこととなり
    (2)の意味で理解すると、現在よく用いられる、私が一つの心に集中することとなります。

    御文章にある"こころを一つにして"は、(1)の意味で理解するべきでありましょう。

    「私たち(ともがら)が、心を一つにして、生きていけよ。」という(1)の意味での、阿弥陀如来からのメッセージ(本願)をしっかりと受けて止めていくことが、真宗門徒の生き様であり、それが教えに基づく社会性の発露であると、私は理解しています。

    小松教区で編集、刊行されました「現代文御文(第五帖)」には、弥陀の本願をこのように味わわれています。
    本願:自分の立場・経験だけでしかものを見ることのできない私たちに、「共に生きる」生き方こそ、私達が求める道であったと、目覚めさせるはたらき。親鸞聖 人は「他力とは如来の本願力なり」といっておられる。

    共に生きるとは、おかげさまの生き様であり、報恩の人生とも言えます。阿弥陀如来の本願に照らされて、平和に(安穏に)生きることができるという、そういった生き方を自分だけでなく、子に、孫にと伝えて生きたいという、ご門徒様方のお気持ち、報恩のお心が、浄土教団の発展につながり、み教えが正しく、広がることで、共に生きる世界がひろがってきていると思います。

    社会制度とか、民族とか、あえて言えば宗教というものを飛び越えて、「共生と報恩」の人生観が広がっていっていただきたいものだと、心から念じております。

  • 就職活動生よ気をつけろ:内定取り消しで留年希望:青学生に告ぐ

    2008年12月22日 | 人生はメンタルだよな
    内定取り消しで留年、青学大が授業料減額へ」という記事がasahi.comに上がっている。
    「青山学院大は、企業から内定を取り消された学生が、単位などの卒業要件を満たしていながら留年を希望した場合、授業料を減額する方針を決めた」

    と、まるで、学生に優しい青学のような記事仕立てになっているのだが。よく読んで欲しい。

    続く記事はこうだ。

    「就職には新卒が有利とされるため「もう一度新卒として活動したい」という学生を支援する。来春から1年間だけの特別措置という。 」

    内定取り消しにあった学生を支援するというのであれば、授業料なんか取る必要があるのか?

    留年学生といっても、単位は取っているのだし、別に大学にいく必要も無く、もちろん授業は受けないので大学側から見て「コストゼロ」なのである。

    要するに大学側の考えはこうだ。

    「そうかそうか、内定取り消しか。で、在籍資格が欲しいのか、、じゃあお金を払ってもらおう。そうだなあ、授業料の半額じゃあ、俺も良心の呵責があるからな、もう少し安くしてやるか。」

    これって、青学卒の学歴に対して1年当たり1,000円ほどよこせ、と言っているようなものなのである。

    若者よ、気をつけたまえ。ずるがしこい大人たちは、山のようにいる。それを気づき対処していくのが、大人になっていくということなのだ。


    がんがれ!

    形式と教えの崩壊についての一考察。SEO的には、葬式宗教、生きる"よすがとは。"

    2008年11月24日 | 人生はメンタルだよな


    宗教は形式である。

    宗教は形式である。これは、間違いが無い。形式を尊ばない宗教は無いと言える。

    形式は、教えから来る。

    この辺から、一般的に怪しくなってくる。

    確かに、「教えがあれば、形式はいらないでしょう」という考え方は、合理性がある。

    しかし、宗教的形式は、生活における形式とは異なるものを持つ。その異なる形式を見せることで、日々の生活ではすぐに雲散霧消してしまう"教え"に誘引するのである。

    立派な伽藍、美しい仏像、巨大な墳墓、そういった非日常のビジュアルから、平生とは違う空間に人を引き込み、"教え"という精神的異空間に引き込むのである(多分)。
    逆に言うと、教えの無い形式は、もはや形式としての意味を成さない。

    形式化する宗教

    さて、宗教が形式的になっている。正確には"教え"の無い宗教的な形式だけが世の中に散見される。

    最たるものが、葬式と、それに伴う"宗教的"儀式である。形式だけが残って、宗教的な意味がなくなっているという。そして、「葬式というもの=形」を、とりあえず整えれば良いと多くの人たちが考えているようである。

    「形だけ整える」

    OK,OK,

    であれば、病院から直接火葬場に持ち込んで焼いてしまう(これを直火焼きジカビヤキと言うらしい)をしてしまえばいいのである。死体を焼いて骨にする(一部地区では、土葬という形で埋葬する)というのが、日本国民の守らなければならない(法律にもとづいた)義務であり、形であるから。

    たしかに、教えが無い形式には意味が無いのであるが、その形式も無くなれば、教えに触れる機会も無くなり、教えそのものも無くなる。

    教えの無い人生

    "教え"が無くなるということは、私が私を"よすが=縁"に生きていくということである。誠に個人主義、私の人生に私のほかに他人は無い、という生き方になるのである。

    結構、結構、それで生きていけばよい、それで生きていければね。

    教えの無い人生は、自らをよすが(縁)にしていくことになる。と書いたが。

    他と無縁の人というのは、一人もいないわけで。他とまったく無縁の人がいたとしたら、その人には両親がいないということになる。それは、ありえないでしょ?

    したがって、自分だけをよすがに生きていくわけには行かないのである。そして、よすがは、自らの外にしか認められないものなのである。

    さて、そのよすがであるが。単に受身の「縁」という意味と、「よりかかるもの」という能動の意味がある。

    人生のよすが

    「よりかかる」って、能動か?

    よりかかるは、対象の働きに自分の身を任すことであるから、よりかかっている状態は、極めて受動的状況といえよう。「逆受動?」

    で、寄りかかって生きていくしかない人であるのなら、できれば、確かなものに、寄りかかっていくほうが幸せであろう(多分そうだろう、確信はもてないが)

    そして、この「確かなもの」が「教え」と呼ばれているものなのである。そして、教えに疑いなくよりかかる状態が "信" と言われるものだと、理解している。

    さて、形式も教えも無くなったときに、何をよすがに人は生きていくのであろうか。

    そこには、迷いの人生が虚空に広がっているのである。それが、六道輪廻の世界なのである。多分

    だからこそ・・・  と坊主は話を始めるのである。