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絶対矛盾的自己同一にいたる道(その2)

2009年09月14日 | 人生はメンタルだよな
私は彼方(あなた)の中にしか存在し得ない、とすれば。

この世にあるものたちがすべて関係性の中にしかその存在を認識することが出来ないとしたら。関係性というもの自体が、何かと何かの関係性によってなりたたなければならない。関係性と関係性の無限に続く多重構造の中にこの世というものが存在しなければならない。そこでは、多重化した関係性の一つが破綻をすると、この世の中全体が無になる。
否、無も一と他の関係性の基盤にあるもの、すなわちこの世の中は「これ」「かれ」「無」の三値で構成されるものであるから、関係性が暗黒物質やエーテルのようにこの世に満たされていなければならない。
しかし、関係性の中に私とあなたがいるという世界観は、京都大学新宮教授がミニ講義で紹介された、『夢が私の記憶から来るものだというフロイト的世界観における「夢と現実の境界」問題』と同じく、自己喪失に至る可能性をはらんでいる。
人は、確固とした自己を保たなければ存在が無い。

といった、思惟の先にあるのかどうかは私にはわからないが、西田幾多郎は「絶対の他」という概念を提示している。

◎自己が自己において絶対の他を見ると考える時、我々の自己は死することによって生きるという意味を有し、他の人格を認めることによって自己が自己になる。私の根底に汝があり、汝の根底に私があるということができる。
◎自己の底に絶対の他を認めることによって、内から無媒介的に他に移り行くということは、単に無差別に自他合一するという意味ではない。かえって絶対の他を媒介にして汝と私が結合することでなければならない。
「松岡正剛の千夜千冊から」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1086.html

私と彼方(あなた)が「絶対の他」として分別されるところに自己の確立を見ることができるのだし、彼方(あなた)を「絶対の他」と認識されるところに私と彼方(あなた)の関係性が明らかにされるのである。
そして、絶対的「絶対の他」としての存在に出会うとき、この世界に立っている私の生が輝き始めるのだと、私は思う。




絶対矛盾的自己同一にいたる道(その1)

2009年08月16日 | 人生はメンタルだよな
写真は通称"特攻花"

生きているということは、死を包含する。
生きているとは、せつなせつなに死んでいくということでもある。
ありとあらゆる生命体は、個体としてはいつかは死ぬ。それについて、なぜという質問の付け入る隙間は無い。なぜ人は死ぬのか、少なくとも私には知ったこっちゃ無い。
人間という生命体(それ自体が人間の認識であるが)が認識するこの世界において、個体が定期的に死滅し、しかしながら、その個体の所属する集団が、個体の生存期間を超えて存続するものたちを"生命"として認識しているだけかもしれない。
いずれにしても、生命体としての人間の個体達が共通して内包しているのは"死ぬ"ということなのである。そして、厄介なことに、死にいつ至るかがわからないというのも、生命体としての人間である。
ふたたび、人間の認識としての時間軸において、蝉という生命体(と人間に認識されるもの)は死に至る時間が定義されている。蝉は夏に地中から這い出て羽を持ち、樹液を飲みながら地上での短い時間をすごしていく。そして、秋にはすべて死に至る。
まさに、生が死を包含している。彼らに死という自覚があるかどうか、同じ目を持たない人間は知るよしもない。しかし、人間の目には規定された時間の中に生き尽くす蝉の生き様に生を感じることができるのである。
すなわち、生を認識して、私にも限られた生をより強く認識することができる。
しかし、個体としての人間=私、はいつ死ぬことやら、幸せなことにわからない。いつ死ぬか=残存時間は誰にもわからないのだ。
統計的には、長い生を続けてきた人間は残存時間は短い。しかし、確率的にはすべての人間に次の瞬間に死ぬ確立は0(ゼロ)ではない。


京大におじゃましました その3:夢の意味:新宮一成

2009年08月12日 | 人生はメンタルだよな
学内をうろうろいたしました後、時計台にある百周年記念ホールにで、「京大教員による講演会」として、新宮一成教授のお話を聞く機会に恵まれました。

新宮一成博士は、精神医学者であり、日本におけるラカン研究の第一人者であります。

お話は、そちら方面のど素人であります私にとっては、「超むずかしぃしぃ~~みたいなぁ」と思わず、JK言葉になってしまいそうなものでありました。

が、いくつか書き留めた言葉を列記します。(内容は、言葉の要旨でありまして、その通りに発言されたのではないことをご理解下さい。)

  • 夢は見るだけではだめ、夢を語りつくすことが出来れば、その夢は価値を持つ(現実となる)。
  • 中世、夢は私のものではなく、他の人のものという認識であった。世の中、たくさんの他人が私の頭の中に入り込んで話したがっており、夢はその発露である。
  • 夢に現れた観音菩薩の言葉で、阿弥陀如来の救い力を心から理解した親鸞聖人は「夢を思想に高める」ことの出来た人であった。
  • 近世において、すべての個の行動は最終的には、その個の身体の活動の一環として生成されるものという思想が生まれる。すなわち、人間の言動は、身体内の臓器の動きに原因を求め、夢という現象も「脳」という臓器の活動の結果として現れるものであると理解された。
  • 夢は利己的行為であり、利己心は無意識から来る(フロイトの心理学の基本かな?)
  • しかるに、夢が私の記憶から来るものだというフロイト的世界観は、「夢と現実の境界」の問題をはらむ。すなわち、「すべてが夢の中」という非社会的世界観に人を導く危険性がある。
  • 「夢を自覚する」とは「自分が死ぬことを自覚する」ことであり、精神疾患治療は、「死の自覚」から始めるのが基本である。

    私はこの、最後の「精神疾患治療は、死の自覚から始めるのが基本」という言葉が気になって、翌日あった同窓会で、精神科医に聞いてみたのでした。彼の答えは。

    「それはそのとおりです。精神疾患の患者は"私だけがなぜ・・"という気持ちが強い。そこで、あらゆる人がそこに至る"死"というもの自覚することで、"私も他人と一緒"という自覚を呼び起こすことが出来る。"なんや、一緒やんか"。そこからが治療の始まりなのです。」
    と。
    そこで、私はもう一言
    「じゃあ、寺の坊主が死ぬことばかり言うというのも、悪くはないね。」
    彼は、
    「大いに言い続けるべきでしょうなぁ。」

    さて、もうすぐ旧盆が参りますが、お墓参りの帰りにでもお寺に立ち寄ってお坊さんの「死ぬ話」を聞いてみてはいかがでしょうか?


  • 言下に○○:げんかに

    2009年07月05日 | 人生はメンタルだよな
    ビジネスを遂行していく中で、スムーズな会話を成り立たせていくことは大変重要なことです。

    そのためには、まず"相手に聞こえる大きさで、滑舌よく、かつ相手のわかる言葉(単語)を使って"話をすることが第一です。ま、この辺からすでにビジネス会話の難しさが始まるのですが。

    ビジネスに限らず、家族とか恋人同士とかでない、いわゆる他人同士、利害関係者同士の会話の半分以上の時間がそこで交わされる"単語"の意味のすり合わせに費やされているといっても過言ではないと思います。もともと、言葉は同じ日本語を話す人たちであっても、生まれてこの方の家族や土地などの生活環境によってその使い方や意味合いが大きく異なることは仕方が無いことです。

    ビジネス上で交わされる会話は、多くは同じ一つの業界内で語られます。したがって、同じセールスマン同士でも、自動車販売の方と広告業界の方とが"販売"という課題についていきなり話を始めても最初はうまくかみ合わないことでしょう。言葉の意味合いが違うのですから。

    これは、同じ業界内でも状況は同じで、例えば軽自動車を売っているセールスマンとベンツを売っているセールスマンとの間の会話を成り立たせるのも手間の要る話だと思います。

    私の属する広告業界でも同じです。まして、皆様お気づきのように私の従事する"ネット広告業界"の人とコンサバな媒体例えば新聞広告業界の方と話をするのは、かなりしんどいことです。

    ネット系の人が当たり前に使う単語

    ROI



    既にだめですね。「広告における投資効率」なんて普通に使って会話が成り立つわけが無い。

    単語の意味合いの刷り合わせ以前に、そういう概念が相手に無いわけですから、会話が成り立つ方が不思議、といっても極論じゃないとすら思えます。

    だからといって、そこで相手との会話を拒絶してしまったら、ビジネスそのものが成り立たないので、ビジネスをしている私(相手の方もそうですが)も言い方をかえ、言葉を変えて相互に理解を深めていく努力が必要であるわけです。

    「広告主が求めているROIを達成できないこの提案が通ると私には思えません。」

    言下に判断を示す。

    そういうやり方をしては、スムーズなビジネスは成り立たないことでしょう。

    しかし、ヒガシ。

    「言下に判断を示す」というというのも、一つの会話方法であって、対話そのものを拒否しているわけではないのです。「私はこう、判断する」に対して相手も「私は、こう判断する」と"言下に"表明することで、論点が即座に明示され、次の会話がより明確に、よりスピーディーに進んでいくのではないでしょうか。

    上に書いた"言下な判断"に対して相手が取る発言は「ROIは何ですか?」だと思います。そんな状況が生じれば、そこで辞書を開けば良いのです。書庫に行って辞書を持ってこなくても近くのPCや携帯電話でwikipediaでも調べればすぐに単語の刷り合わせはできて議論が次に進むと思うのです。

    ビジネス会話の目的は「相手をやり込めること」ではなく「相手との溝を一刻も早く埋めて、共に課題を解決する方法を見つけ出す」事だと思うのです。