宗教は形式である。
宗教は形式である。これは、間違いが無い。形式を尊ばない宗教は無いと言える。
形式は、教えから来る。
この辺から、一般的に怪しくなってくる。
確かに、「教えがあれば、形式はいらないでしょう」という考え方は、合理性がある。
しかし、宗教的形式は、生活における形式とは異なるものを持つ。その異なる形式を見せることで、日々の生活ではすぐに雲散霧消してしまう"教え"に誘引するのである。
立派な伽藍、美しい仏像、巨大な墳墓、そういった非日常のビジュアルから、平生とは違う空間に人を引き込み、"教え"という精神的異空間に引き込むのである(多分)。
逆に言うと、教えの無い形式は、もはや形式としての意味を成さない。
形式化する宗教
さて、宗教が形式的になっている。正確には"教え"の無い宗教的な形式だけが世の中に散見される。
最たるものが、葬式と、それに伴う"宗教的"儀式である。形式だけが残って、宗教的な意味がなくなっているという。そして、「葬式というもの=形」を、とりあえず整えれば良いと多くの人たちが考えているようである。
「形だけ整える」
OK,OK,
であれば、病院から直接火葬場に持ち込んで焼いてしまう(これを直火焼きジカビヤキと言うらしい)をしてしまえばいいのである。死体を焼いて骨にする(一部地区では、土葬という形で埋葬する)というのが、日本国民の守らなければならない(法律にもとづいた)義務であり、形であるから。
たしかに、教えが無い形式には意味が無いのであるが、その形式も無くなれば、教えに触れる機会も無くなり、教えそのものも無くなる。
教えの無い人生
"教え"が無くなるということは、私が私を"よすが=縁"に生きていくということである。誠に個人主義、私の人生に私のほかに他人は無い、という生き方になるのである。
結構、結構、それで生きていけばよい、それで生きていければね。
教えの無い人生は、自らをよすが(縁)にしていくことになる。と書いたが。
他と無縁の人というのは、一人もいないわけで。他とまったく無縁の人がいたとしたら、その人には両親がいないということになる。それは、ありえないでしょ?
したがって、自分だけをよすがに生きていくわけには行かないのである。そして、よすがは、自らの外にしか認められないものなのである。
さて、そのよすがであるが。単に受身の「縁」という意味と、「よりかかるもの」という能動の意味がある。
人生のよすが
「よりかかる」って、能動か?
よりかかるは、対象の働きに自分の身を任すことであるから、よりかかっている状態は、極めて受動的状況といえよう。「逆受動?」
で、寄りかかって生きていくしかない人であるのなら、できれば、確かなものに、寄りかかっていくほうが幸せであろう(多分そうだろう、確信はもてないが)
そして、この「確かなもの」が「教え」と呼ばれているものなのである。そして、教えに疑いなくよりかかる状態が "信" と言われるものだと、理解している。
さて、形式も教えも無くなったときに、何をよすがに人は生きていくのであろうか。
そこには、迷いの人生が虚空に広がっているのである。それが、六道輪廻の世界なのである。多分
だからこそ・・・ と坊主は話を始めるのである。
玉氏は、「教え」という言葉と「縁(よすが)」という言葉で表現されている。また、
>他と無縁の人というのは、一人もいないわけで。他とまったく無縁の
>人がいたとしたら、その人には両親がいないということになる。
>それは、ありえないでしょ?
とも書かれている。
しかし、私はこう思うのである。
私とは何か。私とは、この身体のことでもあるのだが、むしろ私らしい考え方や好み、感じ方のパターンの複合体のことだと考えている。つまり、自分の内部、おそらくは主に脳内の神経パルスが、比較的通り安いルートの組み合わせにより実現されている立体的なパターンとして私というコト(モノではない)は存在している。私の脳の場合、ときどき変調をきたすという問題を抱えているのだが、それはさておくとして。
一般的な人体構造を有する人間は、このパルスが通りやすい脳神経の立体構造を、物理的な肉体から外に出すことはできない。つまり精神活動の物理的側面である神経パルスのパターンであるところの思考(これが人というコトを定義付けていると私は考えている)も、この物理的な制約内、つまり肉体内にとどまると私は思う。
つまり、人というのコト(くどいようだがモノではない)を決定付けている脳内神経の立体パターンは、その肉体の中で閉じた存在なのだと思う。つまり、私の感覚では、あらゆる人はその人が脳内で行える全ての演算(感情や思考などの脳内活動の全て)に対して閉じている(結果が脳内にとどまる)。
ところが、人は全て孤独であると単純に言ってしまっては実もフタもないほど寂しいのも事実であるような気もしないではない。そこで、「縁」と「形式」もしくは宗教が備えている「教え」は、こうした物理的に離散的である、全ての人間・間生活の実態をオブラートに包んで説明するために考え出された知恵なのだと思う。
知恵なのだからして、知識よりも、ずっと上位に位置し、偉いし、素晴らしく価値があると思う。
両親がこの世を去り
居なくなるという事は
子としては
よすがを失う寂しさを折に触れて
感じてしまうものです。
どうぞ、貴兄がそのよすがに
なってあげてください。
教えでなくともいいのです。
ただよすがに…。
お悔やみ申し上げます。