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リマインドと想起の不一致(7)

2016年02月20日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(7)

 ぼくらは休み時間や、放課後に語り合った。当面のライバルも恋敵もいない。平和な時期だ。みんながぼくらを一つのセットのように考えている。椅子には机があり、黒板にはチョークがあるように。あるいはおもちゃのレゴで精密に組み立てられた家のような立体的なものとして。

 実際に会いながらも電話でも話す。彼女は塾に通い、その後にも会った。ぼくらは受験をする。そこからは別の合格した学校に通うことになるだろう。ぼくらが密接に過ごせる時間はそう長くない。月曜の朝、朝礼の時間に立つ彼女や、体操着で走る様子。そこに、彼女がいた。

 現在という地点からさかのぼっているので、過去や次第にあらわれた未来を冷静に分析できる。判断が誤っていたのを理解しても、戻せないというもどかしさがあった。当時者でいることが最大のご褒美だ。ジェットコースターで悲鳴を上げる権利があり、涙を乾かすタイミングももっている。

 ひじりの性格の一端が分かりだしていく。それが女性らしさの模範となる。サンプルは少ない。一つの蝶々が世界のある地方にしかいない稀少なものでも、ぼくにとって全世界の品種に接したことと等しくなる。

 もっと後になって浮気性にでもなれば(結局、ならなかったと自認しているが、公認とまではいかない)その地方ずつの蝶々を発見する恵みも得られるだろう。どちらが幸福なのかは比較しようもないが、ぼく自身の経験でいえば(常にこれしか解釈の仕様がない)この休み時間も放課後も格別に楽しいものだった。

 ぼくらの内面は一体となることを望みながらも、反対に外側のものがあることで一体となることを拒んでしまう。これも大人になって反対の事実があることを不謹慎にも会得してしまう。外は一致しているが、内側は愛情などという高貴なものとは無縁でいた。よろこびがないわけでもないが、純真さを秘めているとは決していえない。また大人にとって純真などはアイスの当たり棒のようなもので、甘みの自己制限があり、二本も必要としていない。もっと手頃な、身近なものに愛着がある。

 ぼくらは離れる。淋しいという感情が見知らぬ場所から生まれてくる。うなぎの稚魚と同じと書けば、この文章自体が台無しになってしまう。

 場所を特定できないので消しようもない。次の日に会って、その気持ちが勝手に捨てられていることに気付く。毎日が、こんな感じだった。

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