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リマインドと想起の不一致(13)

2016年02月26日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(13)

 もちろん、たまにはケンカもした。親しくなればなるほど甘えと不一致が微妙に入り混じって、許容と拒絶の狭間とその隙間に小石のようなものがまぎれ込んで、多少の傷をつける。小さければ回復は即座という観点でも可能だ。ぼくらは幸運なことにまだほんの小さな傷しか身に受けていなかった。

 怒りというのは持続しない。ぼくは自分のプライドや正解に伴う見栄より、ひじりのことが好きだった。嫌いな相手であれば、ぼくはそれらの感情の副作用を何よりも優先しただろう。後年には自分が誤っていても、信号を無視するドライバーのように意図的に反則の揉みつぶしを押し通すこともしばしば起こした。

 人生はゆずるという行為をくり返す場としては、かくも残酷で、野蛮過ぎた。そういう所にすることの容認に無言で自分も大いに加担していた。

 電話や、あるときは直接にでもだが、ぼくが率先して謝ったり、ひじりが同じことをする場面も度々あった。そのうちの数回はひじりも頑固な人間だなと気付かされる機会もある。それでも、表面に思わずこぼれでたらしいふくらんだ頬は愛らしいものだ。ぼくは人差し指で彼女のそのふくらみの頂点を押す。彼女は笑いだして、ぼくも仲直りのきっかけが与えられた印と記念のように同じく笑った。

 受験も近付き、会う時間も減らすように努力している。時には互いの感情に振り回されて約束を破ってしまうこともあった。だが、のんべんだらりと時間を無駄にすることは確実に減った。お互いの未来が天秤の向こうにかかっていた。

 ぼくは高校生になった自分を夢想する。いまとは違う大人になった人間が架空のなかでだけできあがり、そこには優越さとさびしさが混じり合っている状況の如く、あいまいなものとして必要以上に立体的になることを拒んだ。

 ひじりも少女から大人へと変わる。その日々の変化をぼくは片時も漏らさずに認識できるのだ。

 今日のひじりは、大体が昨日といっしょだ。だが、一年後は違う。十年後にはもっと違いが明らかだろう。その変化はずっと共に生活しなければ手に負えないほどの相違を加えてしまうかもしれない。例えばどこかで別れて、ある日、どこかで再会しても当人であることに気付かないこともあり得た。ぼくは、いままさにひじりの横顔をながめる。しわ一つないつやつやとしたほっぺた。ぼくの数十年後はどうなっているのか。ひげが口元を覆い、自然に示す態度に横柄さを中年の腹周りの肉のように身につけている。自分のなりたくなかったものに知らず知らずのうちに征服されている。

 ひじりもそうなるのだろうか? セールの真っ最中に人混みをかき分けて洋服の奪い合いをしているのか。どこかで砂場で遊ぶ子どもを見守っているのか。いつも、油断したわけでもないが気付くと、あっという間にひじりの家の前まで来てしまっている。

 別れた後に、友人に会ったので家まで自転車の後ろに乗せてもらった。