問題の在処(7)
息子は、ある女の子と遊びたくはないと言う。そのことを訊くと、嫌いな子ではないそうで、逆に好きなはずだと妻はいった。この小さな個体のなかにも、いろいろな判断がうまれるのだろう。
その小さな存在が、誰かのこころを傷つけることがないといいのだけれど。
ぼくら友人たちも違ったかたちで、女性を知ることになる。
B君は、きれいな彼女と順調に交際を続けている。傍目から見ても、それは素敵な関係だった。彼女は、週に一度ぐらいは、ぼくがバイトをしている店に寄ってくれる。普通の子とは、音楽の趣味が異なっており、それもまた彼女の存在を魅力てきにしているものかもしれない。
軽く受け答えをしているときに、ぼくに見せる仕種のひとつひとつに女性らしさが表れている。天性にもって生れたものを評価する社会と、後天的に努力して勝ち取った能力を評価されるのは、どちらが正しいのだろう。彼女は、その時点では生まれながらにして優しさが溢れているような人だった。いつも、帰りがけにはぼくに励ましの言葉をかけ、今日は会えて良かったな、という印象を抱いた。
ぼくに対してそうなのだから、本物の彼氏であるB君は、とても幸せであると想定される。しかし、若い男性のこころが動かないなど、誰も考えていないかもしれない。そう作られていることを残念に感じたりもする。直接、交際をやめてしまうようなことはないが、B君のまわりには不特定の女性がいた。そのことを、真の友人は責めたりした方が良いのだろうか。ぼくには分からなかった。
A君は勤勉な労働者になっている。学問自体が嫌いなわけではないので、そうした人の遠回りの特徴として、本を手にすることになる。それ以外に確実な方法などあるのだろうか? と彼は言っている。本を読むことに没頭すると、頭の中で理想を追求することが生まれる、と彼は言った。すべての理想には、出来損ないである現実という名前の弟が備わっている。その二つは、距離をある程度とりながら宿命的に一致することはないだろう。
それで、不思議な結論になるのだが、A君の頭の中には理想の女性というものが生まれてしまったらしい。それが舞台袖から登場するのか、それとも、やはりそんな人が表れないかは分かるわけもない。だが、ぼくとしては登場することを望んでいる。
そういう頭の中のモンスターがありながらも、実際の愛のない関係は、やはりしていたのだと思う。働いて余ったお金は、どこかで流通させなければならない。それが下水に流れても、水は水である。もとはきれいな山頂の清流であったかもしれないが、下流にいけば生活用水などで汚されている。どうして、人間の営みが汚れから影響されずにいられるだろうか。
ぼくは、レコード屋のバイト先で知り合った店長の奥さんと、そういうことになる。それは安易と呼べるものなのだろうか、それにしてもぼくにとっては幸福の象徴のような出来事であり、またゴールの幕は切れてしまったという実感でもあった。そのことを、定期的に行うようになり、ぼくの女性観の一部が作られていく過程でもあった。
もちろん、ぼくには和代という同級生だった女性とも交際していた。彼女は、ぼくの行動を疑うようなことはまるでなかった。ぼくも後ろめたい気持ちも少なかった。
こうして、ぼくら友人は、なんでも話せるような仲には終わりを告げ、それぞれの秘密を自分の身体に宿しながら、会うようになっている。
ぼくは、試験前になるときだけ勉強するようなタイプになり、A君は学校での勉強を捨て去ってしまったが、なにかを学ぼうとすることは熱心であり、B君はなにごとにもうまく振舞っていた。バイトをしながらも、いつも成績は優秀で、服装なども洗練されていった。彼には、輝ける何かがあり、将来的にも社会てきに有能な人材になりそうだった。
こうして、数か月で、それぞれきちんと整備された高速道路の入口にはいったようなB君がいて、平均的な田舎の道路を走っている自分がいて、険しいながらも見晴らしの良い場所にたどり着けるかもしれないA君がいる。それにともない、思い出というものは子供好きの両親のアルバムのように、記憶の中に増えていった。それが甘い分量のが多ければいいが、そうならないものがあるのも、これまた10代なのだろう。
息子は、ある女の子と遊びたくはないと言う。そのことを訊くと、嫌いな子ではないそうで、逆に好きなはずだと妻はいった。この小さな個体のなかにも、いろいろな判断がうまれるのだろう。
その小さな存在が、誰かのこころを傷つけることがないといいのだけれど。
ぼくら友人たちも違ったかたちで、女性を知ることになる。
B君は、きれいな彼女と順調に交際を続けている。傍目から見ても、それは素敵な関係だった。彼女は、週に一度ぐらいは、ぼくがバイトをしている店に寄ってくれる。普通の子とは、音楽の趣味が異なっており、それもまた彼女の存在を魅力てきにしているものかもしれない。
軽く受け答えをしているときに、ぼくに見せる仕種のひとつひとつに女性らしさが表れている。天性にもって生れたものを評価する社会と、後天的に努力して勝ち取った能力を評価されるのは、どちらが正しいのだろう。彼女は、その時点では生まれながらにして優しさが溢れているような人だった。いつも、帰りがけにはぼくに励ましの言葉をかけ、今日は会えて良かったな、という印象を抱いた。
ぼくに対してそうなのだから、本物の彼氏であるB君は、とても幸せであると想定される。しかし、若い男性のこころが動かないなど、誰も考えていないかもしれない。そう作られていることを残念に感じたりもする。直接、交際をやめてしまうようなことはないが、B君のまわりには不特定の女性がいた。そのことを、真の友人は責めたりした方が良いのだろうか。ぼくには分からなかった。
A君は勤勉な労働者になっている。学問自体が嫌いなわけではないので、そうした人の遠回りの特徴として、本を手にすることになる。それ以外に確実な方法などあるのだろうか? と彼は言っている。本を読むことに没頭すると、頭の中で理想を追求することが生まれる、と彼は言った。すべての理想には、出来損ないである現実という名前の弟が備わっている。その二つは、距離をある程度とりながら宿命的に一致することはないだろう。
それで、不思議な結論になるのだが、A君の頭の中には理想の女性というものが生まれてしまったらしい。それが舞台袖から登場するのか、それとも、やはりそんな人が表れないかは分かるわけもない。だが、ぼくとしては登場することを望んでいる。
そういう頭の中のモンスターがありながらも、実際の愛のない関係は、やはりしていたのだと思う。働いて余ったお金は、どこかで流通させなければならない。それが下水に流れても、水は水である。もとはきれいな山頂の清流であったかもしれないが、下流にいけば生活用水などで汚されている。どうして、人間の営みが汚れから影響されずにいられるだろうか。
ぼくは、レコード屋のバイト先で知り合った店長の奥さんと、そういうことになる。それは安易と呼べるものなのだろうか、それにしてもぼくにとっては幸福の象徴のような出来事であり、またゴールの幕は切れてしまったという実感でもあった。そのことを、定期的に行うようになり、ぼくの女性観の一部が作られていく過程でもあった。
もちろん、ぼくには和代という同級生だった女性とも交際していた。彼女は、ぼくの行動を疑うようなことはまるでなかった。ぼくも後ろめたい気持ちも少なかった。
こうして、ぼくら友人は、なんでも話せるような仲には終わりを告げ、それぞれの秘密を自分の身体に宿しながら、会うようになっている。
ぼくは、試験前になるときだけ勉強するようなタイプになり、A君は学校での勉強を捨て去ってしまったが、なにかを学ぼうとすることは熱心であり、B君はなにごとにもうまく振舞っていた。バイトをしながらも、いつも成績は優秀で、服装なども洗練されていった。彼には、輝ける何かがあり、将来的にも社会てきに有能な人材になりそうだった。
こうして、数か月で、それぞれきちんと整備された高速道路の入口にはいったようなB君がいて、平均的な田舎の道路を走っている自分がいて、険しいながらも見晴らしの良い場所にたどり着けるかもしれないA君がいる。それにともない、思い出というものは子供好きの両親のアルバムのように、記憶の中に増えていった。それが甘い分量のが多ければいいが、そうならないものがあるのも、これまた10代なのだろう。