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問題の在処(2)

2008年09月03日 | 問題の在処
問題の在処(2)

 翌日は適度に晴れた日曜だった。

 公園のベンチに座りながらも、すこし離れたところで妻と息子が砂場でしきりに話しているのが見える。その声はここまでは聞こえなかった。多分、平日にはよく会うのであろう、数人の子供たちが息子に近づいて共通の何かしらのルールのもとに遊びだした。それを見て、妻は(祐子という名前だが)ぼくの方を見てにっこり笑い、ぼくも笑いかけ彼女はこちらに歩みだした。

 息子にも友人たちと呼べるものが出来はじめ、彼らと遊ぶことを学んでいることに少しばかり感動していた。それと同時に、自分の過去にも思いを馳せる。

 ぼくにも友人たちがいた。同じような土地に生まれ、いま考えれば両親の教育プランや収入は多少こそ違っているだろうが、スタートはほぼ同列だったはずだ。中学は部活に多くの時間を費やした。カール・ルイスという大スターが出だした頃で、世界的な名声を目前にしている時期だった。ぼくも同じようにトラックの上を走った。あんな人間には、どう転がってもなれないことを理解することは、そう遠くない先に待っていることはまだ知らなかった。知らないだけに走ることはやめなかった。そのグラウンドで行われている競技は違うが、その場で同じ汗をかいていることが理由だったためなのか、何人かの友人は自然発生的にうまれてきた。

 長い練習の末、湿ったユニフォームから制服に着替え、帰り道にちかくの店により、買い食いをしたりもした。異性に対しての興味も覚え、意見を交換したりもしたし、それが実らない恋につながったり、実際的な道のりに歩みだすこともあった。しかし、いま考えればすべてオママゴトのような内容だ。

 だが、その放課後のひとときに象徴される関係は、確実に誰に評価される必要もないほどの友情のはじまりだった。

 練習の続いたあとは、結果を確認する義務があった。区内の陸上競技大会にでかけ、思ったような勝利を得ることもあれば、つまらない失敗を実感するときもある。個人てきな意見を言うならば、スポーツの効用は、どんなに練習しても上には上がいるという事実と折り合いをつけることだ。

 決定的な敗北や不甲斐なさを受け止め、それにめげることもなく、すべてを投げ出してしまうこともなく、次回はそれなりの練習を積み重ね、もしかしたらライバルを追い越せるのではないかという偶然を信じ、それでも敗北が待っているという隠せない事実があるのが本当だ。それこそが、スポーツから学べることだ。世の中の勝利など一瞬のことで、あとはすべて地下の報われない頑張りがあるだけだ。

 しかし、そのことを学ぶのはもっとずっと先のことだ。学校があり、放課後のスポーツを通して今後生きていかなければならない世界での社会性を身につけることもできた。そのときに、話せる、または同じことに打ち込む友人がいて、まだ世間との大きな壁を作る前に、そうした時間がもてたことは素晴らしいことだった。
 いつのまにか祐子がとなりに座っていた。

「どうしたの? むずかしい顔をして。考え事?」
「そう? あいつにも遊んでくれる友だちが出来たんだ」
「そうだよ。たまにはおもちゃを取り合いっこしたりするけどね」
 息子(幸太という名前だ)も遊びつかれたのだろうか、頼りなげな足取りで、ぼくらの方に向ってきた。祐子は彼の手を取り、近くの水道で手を洗わせていた。それが終わると、ぼくが見ていた一部始終を幸太はしゃべりだした。それに、自分はいちいち頷いた。ほかの家族も同じようにいつの間にかいなくなり、誰もいなくなった砂場には持主の分からないスコップが置いてあった。

 公園をでると、急に日が傾きはじめ、夕暮れが足早にやってきた。妻は、夕飯の心配をいつものようにした。外食でもと自分はいったが、祐子は冷蔵庫に入っている食材を頭の中に並べ、それに合いそうな料理のうちどれが良いかと尋ねてきた。自分は、それに答え、三人で足りない材料を買いにスーパーに立ち寄った。

 そこは混んでいて、ぼくと幸太はそとで待っていて、その間に彼女は店内に入って行った。戻ってきたときは数袋ぶんだけ荷物が多くなり、それをぼくは彼女の手からもらった。

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