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11年目の縦軸 38歳-34

2014年07月05日 | 11年目の縦軸
38歳-34

 ぼくは録音技師になるべきだったのだ。彼女の声の記念として。

 しかし、才能などは端的にいえば雌牛の乳房にたまったミルクのようなものだと思う。どんな量で、どんな成分を増やしてほしいなど、こっちの勝手な意図は組み込まれない。ただ、定量を毎日、毎日、きちんとしぼることが必要なのだ。そして、ある日、不意に打ち止めになる。それが手の習熟した技能によるのか、蛇口をとりつけるのかは分からないが、与えられたものを注ぎだせばミルクも才能も終わりだった。干上がってしまえば、なす術もない。

 ぼくの耳はさまざまな音を聞き分ける。これも、普通のひとが感じる程度にだ。好悪というものも、それぞれが違う。ぼくの耳は絵美の声を純粋に美しいと思っている。もちろん、朝一番の扉の向こう側にいるような声や、喜んで甲高くなるときもある。でも、総じて普段は落ち着いた声を出した。

 音を最終的に耳に届けるには、どんな優れたデジタルの媒体であってもアナログにどこかで変換しないといけないそうだ。通常の会話の音ではそんなことは一切、気にしてもいない。声に限定せず、軒下に揺れる風鈴だろうと蝉の鳴き声であろうと。

 CDやレコードがある。そこに音が、信号とか溝として封じ込められているはずだが、それらを再生する装置が必要になり、アンプを通して増幅し、最後はスピーカーやヘッドホンという出口に向かう。人間の声はそこまで難しい配線を通していない。いくつかの器官がものを食べながら、別の役割で音も出した。

 留守番電話にその声の断片がのこっている。大体は聞き終わって役目を果たせば同時に消した。ぼくはこの声の持ち主と未来があるのだという漠然とした信頼が勝利をおさめているころだ。地球外の生物にもし接したときに相手が困らないように、理解への導きとして歴史的な録音が宇宙のどこかにただよっている。みな、ないかもしれない可能性のために労働をすることも、面倒を厭わない場合もあるのだ。なぜ、ぼくが努力をためらっても罰せられないのだろうか。

 声は音程なのか、振動なのか、濃度なのか、空気の含み具合なのか。すると総合体として考慮することになると、もしこれが仮定でも、このまま押し通せば、録音という方法が間違っていることになる。風船のようなもので絵美の周辺の空気を漫然と吸い込むしかない。もちろん、そこに音はない。

 なぜ、音だけにこだわるのか。存在から発せられる一部分でしかないはずなのに。ラジオよりより身近になった媒体もたくさんある。かといってラジオを葬り去るわけにもいかない。

 彼女は、ぼくがそれほどその声を気に入っていることは知らないはずだ。長所というのは指摘されて、はじめて長所になるのか。自分で得意がっていることを評価されずに、自分がいやいやしたことの結果を褒められることもまれにあった。第三者の目、ここでは耳、が判別する。ひとは自分のことを正確に知り尽くすことはできない。町でばったり自分自身に出会い頭にぶつかりそうな機会がなければ、自分の第一印象がどういうものかが客観的にも類推的にも分からない。テープにとった自分の声もまったくの他人のものである。自分の骨という壁面にぶつかって反響が起こった音しか、通常は聞き取ることができないのだ。

 ぼくは絵美の声に魅了されていることだけを書こうとしていたのだった。しかし、それだけを取り出すことはできない。声だけに会っている訳ではない。その温かい、ときには冷たい手を握り、まつげの動きを見て、笑うときに眉毛がアンバランスになることも、すべてが魅力だった。

 機材もリハーサルも特別なマイクも必要ではなかった。チューニングに手間取ることも、ポリープに悩むことも、外部の騒音にいら立つこともなかった。普通に生きられるということがぼくの身の回りにはのこっていた。そこに絵美がいつもいた。

 だが、ぼくはイラスト程度なら描けるのだ。紙とペンだけあれば。詳細なデッサンではない。数本の曲がった線だけがそのひとの特徴となる。だが、どこかで似ていない。似せるという行為そのものが間違っているような気もした。誰にも似ないでいい。個性そのものを際立たせればいい。あざとくならずに。計算ずくめにならずに。

「そういうときの顔、意外と格好いいよ」

 ぼくは彼女の部屋で切れた電球を取り替えていた。両腕を伸ばして、長年、着過ぎた、洗濯し過ぎたよれたTシャツの裾がへそを隠すことをやめていた。自分としてはあまり納得のできない姿だった。いや、自分の外見や様子など、そのときはまったく意識していなかった。ただ、目の前の問題を片づけることだけに注視していた。

「これが?」
「それが」

 この三文字だけを放つ絵美の声も素敵だった。耳というのは次の音を待つようにできている。脳だけが、一瞬前の過去の音の意味と味わいを分析しようとしている。分析というには精度もあまり高くなく、ぼんやりとしていて、間違うことも多い代物だった。

 ぼくは手を洗いスイッチを押す。電気はつく。録音機のスイッチもどこかにあると良かった。


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