朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

日本に帰化した若光

2009年09月10日 | 高麗若光
666年に進調使の一員として日本にやってきた若光。
しかし、その2年後に母国、高句麗は唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、彼は二度と母国の土を踏むことはなかった。

外交が目的であるから、当初、若光達が日本にやってきたのは、その当時日本の中心地である飛鳥であったことは間違いない。帰る国を失った彼はその後日本で暮らすことになるのだが、しかし、そのまま飛鳥地方に住み着いたのではなかった。
彼は船で太平洋を東に進み、東国の相模湾から現在でいう大磯町に上陸したのである。

高句麗より先、660年に百済が滅ぼされており、百済からの亡命貴族達がすでに多数日本にやってきていた。かつての敵国同士が同じ地域で暮らすのを避けようという配慮があったのか。あるいは、もともと関東には早くから高句麗の文化が伝わっていたという事情があったためか。

(※北陸(越)から長野、山梨を経て関東平野には古くから高句麗(騎馬民族)の文化が伝えられていた。長野県に多数見つかる高句麗式の墳墓、山梨に残るコマ(巨摩)の地名などは決して偶然ではない)


ちなみに渡来人と帰化人は混同しやすいがその意味合いは異なる。
「渡来」とは言葉通りただやってきたというだけだが、「帰化」はその国の文化に従属することである。
若光は、最初日本に「渡来」したが、結局「帰化」せざるを得なかったということだ。

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