大磯にやってきた若光がどのような暮らしをしていたのか詳しくはわからない。しかし、おそらくは、大陸から持ち込んだ先進技術を伝え、地元の人たちにとっては救世主のような役割を果たしたのだと思う。高来神社の言い伝えに残る「権現様」という呼称がそれを予測させる。
若光は、母国の名前を掲げ日本では「高麗若光」と名乗ることになる。そして、時代は流れ8世紀に入る。
「続日本紀」巻三大宝三年 四月の項に次のような記述がある。
『乙未 從五位下高麗若光賜王姓』
703年4月4日 從五位下の位(くらい)にある高麗若光に王(こきし)の姓が与えられた。
以降、若光は「高麗王(こまのこきし)若光」となる。百済からの亡命貴族達に「百済王(くだらのこにきし)」という姓が与えられたように、もと王族であることのお墨付きをもらったようなものかもしれない。
「従五位下」というのは官位を示すものであり、「従五位」は「正五位」の下、「正六位」の上にランクされる。近代以前の日本における位階制度では、「従五位下」以上の位階を持つ者が「貴族」とされたということなので、ギリギリ貴族の範囲内ということか。
しかし、若光はきわめて優秀な人物だったと思われる。引き続き「続日本紀」巻七霊亀二年 五月の記述から。
『辛夘 以駿河 甲斐 相摸 上総 下総 常陸 下野七國高麗人千七百九十九人 遷于武藏國 始置高麗郡焉』
716年5月16日 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7か国から高句麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を設置した。
高句麗から亡命していたのは若光らだけではなかった。1,799人という妙に具体的な人数の高句麗人が一箇所に集められ「武蔵国高麗郡」が設置されるのである。このとき高麗郡の首長(郡司)となったのが若光なのだ。
高麗郡は、現在の埼玉県日高市、飯能市の一部を領域としていた。その首長というからには、現在で言えば県知事ぐらいに相当するのではないか。
若光はリーダーとして高麗郡の開発に務め、730年にその生涯を閉じる。日本に渡って来てから64年。当時としてはかなり長生きだったように思われるが、それでも逆算すれば日本にやってきた当初はかなり若かったということになるのだろう。
滅亡近い高句麗の未来を託された、一人の若者だったのかもしれない。