急遽、別ネタが間に入ってしまったが、改めて高句麗第6代王の太祖大王について。
もう一度、太祖大王に関する『三国史記』の記述を見てみよう。
瑠璃王の子の古鄒加(こすうか)の再思(さいし)の子
再思の子
再思・・・ ええっ?
えええええっ!!!
漢字で書いてあるとついつい見逃してしまうのだが、再思とはすなわちチェサのことである!
朱蒙が毛屯谷についたとき、三人にあった。そのうちの一人は麻衣を着ており、一人は僧衣を着、一人は水藻の衣服を着ていた。朱蒙が、
あなたたちは何処の人で、なんという姓で、なんという名ですか。
と問うた。麻衣の人は、「再思(さいし)といいます」、僧衣の人は「武骨(ぶこつ)といいます」、水藻の衣服の人は、「黙居(もくきょ)といいます」と答えたが、姓を言わなかった。
(東洋文庫『三国史記』より)
※毛屯谷:ドラマではモドゥンコクと呼ばれていた
再思→チェサ、武骨→ムゴル、黙居→ムッコなのだ。
たまたま同じ名前の人がいたということか?
しかし、ムヒュルの時代にもオイ・マリが武将として活躍していた(詳しくはコチラ参照)ことを思えば、同じく朱蒙の家臣であったチェサの存在をユリやムヒュルが知らぬはずはない。
だが、そうすると『三国史記』の記述は、チェサ(再思)がユリ王の子だと言っていることになる。そして、そのチェサ(再思)の子が、第6代の太祖大王だということだ。本当だろうか。何かおかしくないか?
・『三国史記』瑠璃明王(ユリ王)の条項に、トジョル(都切)、ヘミョン(解明)、ムヒュル(無恤)、ヨジン(如津)の名前は現れるが、チェサ(再思)の文字は何処にも見られない。
・東明聖王(朱蒙)の条項以外で、チェサ(再思)の名が現れるのは、上記の太祖大王の紹介のところだけである。
・その紹介で、単に「瑠璃王の子」ではなく、わざわざ官職名までもつけているのは異例である。(実は、同様な例が第15代美川王のときにもある。面白いことに、美川王の先代も家臣の諫言を聞き入れない身勝手な王だった。)
・そして、慕本王と太祖大王の間には、何らかの断絶があるように感じられる。
以上から推測すると、例えば、何がしかの「政変」があったのではないか。それはまるでミシルが王権を奪い取ろうと画策したかのように(こちらはドラマ上の話だが)。
ここからはまったくの想像である。
朱蒙の家臣として高句麗の要職におさまったチェサは、ミシルと同様に上昇志向の強い人物だったのである。一貴族として、自らが王になることは叶わなかったが、自分の息子をなんとか王位につけようと、あらゆる勢力を自分の味方につけ、その時が来るのを虎視眈々と伺っていたのだ。(ヨン・チェリョンを思い出して欲しい。あるいはペグクの反乱のようなものが実際にあったと想像してみればわかりやすい)
たまたま、王としてはあまりに不甲斐ない慕本王を、(自らの手ではないと思うが)殺害し、朱蒙ーユリームヒュルと続いてきた一族を断絶させた。そのうえで、自らの息子を王位につけたのである。
しかし、高句麗には天孫思想がある。王権は天から授かるものであり、奪い去るものではない。そこで、記録上、チェサがユリの子であるように無理やりねじ込めたのではないだろうか。
実際には新しい王朝の始まりと言って良いかもしれない。だからこそ、その初代が太祖大王であり、以降、次大王、新大王と続くのだ。(いずれも再思(チェサ)の息子である)