朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

義慈王と翹岐(ぎょうき)

2011年10月31日 | 階伯(ケベク)

はたして義慈王の本当の母は、ソンファ皇后であったのか、サテク妃であったのか。
この時代の百済は史料に乏しいので、真実はなかなかわかりづらい。

ところが、この件に関しては日本(倭国)も無関係とはいえないのである。

Wikipediaの義慈王の項目には以下のような記述がある。

義慈王は即位すると直ちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。642年に王族とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐した。

この後半部分に関しては、実は「日本書紀」に記録されていることなのだ。

時代は舒明天皇が亡くなり皇極天皇が即位したばかりの頃である。
皇極天皇元年(642年)の2月、前年に舒明天皇が亡くなったことを聞きつけた百済の弔問団の一行が日本を訪れる。その際に訪れた人たちがこのように語っている。

今年の正月(むつき)に、国の主(こきし)の母(おも)薨(みう)せぬ。又(また)弟王子(だいおうじ)、児翹岐(ぎょうき)及びその母妹(おもはらから)の女子四人(えはしとよたり)、内佐平(ないさへい)岐味(きみ)、高き名有る人四十余(よそたりあまり)、嶋(せま)に放たれぬ

この部分は相当に注意が必要である。
ゆっくり解釈していこう。

まず、「今年の正月に、国の主の母薨せぬ。」の部分は、まさに義慈王の母が亡くなったことを伝えている。

次の「弟王子、児翹岐(ぎょうき)」について、そのまま読むと弟王子とその子供である翹岐と思えそうだが、一般には弟王子=翹岐とみなされるらしい。いずれにせよ、この翹岐(ぎょうき)という人物は要注目である。(中大兄皇子と同一人物だという説もあるくらいだ)
ちなみに、ドラマ「ケベク」では、キョギとして登場するが、その設定では「武王とサテク妃の息子」とされている。つまり義慈王の異母兄弟ということになる。

「母妹(おもはらから)」とは、同一の母から生まれた兄弟姉妹ということで、「その母妹からの女子四人」の部分は、結局、翹岐の姉妹4人ということになる。翹岐の母がサテク妃というのが真実であれば、いずれもサテク妃の子供ということになろう。

義慈王の実の母がソンファ皇后であったとすれば、義慈王が腹違いの兄弟を追い出すという行動は実にわかりやすい。もっとも、この時代は同じ母から生まれた兄弟であっても蹴落とさなければならない厳しい状況であったとも言えるが。

注意しなければいけないのは「その母」で切って読むと間違いだということ。この点は僕もずっと勘違いしていたようだが、翹岐の母が一緒に島流しにされたということではないらしい(異説もある)。

島流しにされた先の嶋(島)とは済州島のことである。

しかし、翹岐たちはその後、済州島から日本へと渡ってくるのである。
翹岐は当時の実力者である蘇我蝦夷に自宅に歓待されるほどであった。(この話はまたの機会に)


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