朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ケベク第19話

2012年08月20日 | 階伯(ケベク)

ウィジャの立太子礼がとり行われる。

「三国史記」百済本紀
武王33年(632)春正月、嫡子の義慈を太子とした。

632年といえば、トンマンこと善徳女王が王位に就いた年でもある。
前王の真平王が亡くなったのは632年のやはり「正月」なので、ウィジャの立太子と善徳女王の即位は、ほぼ同時期ということになる。

(ソンファ姫が真平王の娘であるという前提ではあるが)叔母と甥が同時期に・・・というのは、単なる偶然にしては出来すぎのような気もするのだが・・・?

ちなみにこの時期の日本は、舒明天皇(629-641年)の治世。
この舒明天皇は不思議な人で、「日本書記」によれば、百済川のほとりに九重の塔を建てたり、百済宮、百済大寺を作れと命令したりなど百済づくしの天皇である。(ただし、ここに言う「百済」は国名のことではなく、日本国内にあった地名(現在の橿原市飯高町付近)とされる)
その最期も、百済宮で崩御し、宮の北で行われた殯(モガリ)に関しては、「是を百済の大殯と謂ふ」とわざわざ記述されているほどだ。

 

ドラマ後半で、ケベクは王命を受け、郡臣(クンジャン)として居列(コヨル)城に赴く。
城下の民は、もともとは伽耶(カヤ)の民だったということらしいが、現在は百済(ペクチェ)、そして万が一新羅(シルラ)に占拠されるようなことがあれば、彼らは新羅の民となる可能性もあったわけである。

食っていける土地さえあれば、ペクチェでもシルラでも関係ねえ!

農民がこう吐き捨てる場面があるが、実に象徴的である。
結局のところ、この時代に国が変わるということは、王朝の交代、為政者の交代を意味するものであって、国の基盤となる民が入れ替わるわけではないのだ。

 

新羅の西谷(ソゴク)城の城主は金欽純(キム・フムスン)。字幕にもあったとおり、彼はキム・ユシンの実の弟である。

 

 


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