ドラマ「ケベク」第17話で、唐からやってきた使臣(長孫師)が武王に謁見する場面がある。
武王:このたびは見事な大仕事をしたとか?
長孫師:ああ、高句麗の京観(けいかん)を壊した一件ですか?
あれはまったく痛快でした。
武王:京観は、かつて高句麗が隋の攻撃を退け、勝利を収めた記念に作られた。
それをなぜ唐が壊すのだ。
長孫師:京観は隋の恥ですが、隋のときの民もいまは唐の民です。
わが唐は天下を統一し、これまでの過去を背負っていかねばならないのです。
私は決して京観など容認できません。
壊された京観を見て呆然としたであろう高句麗王の顔が目に浮かびます。
京観とは、以下の「三国史記」の記述にもあるとおりだが、隋の時代に高句麗が隋を打ち破った際に戦勝記念として造ったものである。(ドラマ「ヨンゲソムン」では石造りの塔として描写されていた)
この京観の存在は隋(ならびに後の唐)にとって屈辱的なものだったわけだが、その京観を壊すことは高句麗にとって屈辱的なことなのである。
「三国史記」高句麗本紀
栄留王14年(631)、唐朝は広州〔都督府〕司馬の長孫師を派遣して、隋の戦士の骸骨を収め埋めて祭り、当時〔高句麗が〕立てた京観(屍を積み、封土して戦勝を誇示したもの)をこわした。
ところで、これによって、ドラマの年代設定が明確になった。やはりカジャム城を攻撃したときは629年頃ということになるのだろう。(カジャム城攻撃は629年の話?)
ドラマではこの直前にウィジャの子供が生まれたエピソードがあるのだが、「日本書記」によれば631年はウィジャの息子が人質として日本にやってきた年である。つまり、実際にはもっと早い時期に子を産んでいたということになる。
『日本書紀』巻二三舒明天皇三年(六三一)三月庚申朔◆三月庚申朔。百濟王義慈入王子豐章爲質。
三月の庚申(かのえさる)の朔(ついたちのひ)に、百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、王子(せしむ)豊章(ほうしょう)を入りて質(むかはり)とす。