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 名古屋市名東区 赤帽タケフジ運送の「ふ箱」

赤帽タケフジの車窓から見える光景

名古屋市名東区の赤帽運送はタケフジへご用命下さい
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吉田藩、前芝の灯台

2009年12月04日 | いにしえから学ぶ

Img_1125  田原の帰り。前芝海岸にある、灯明台に寄ってみました。江戸時代初期の灯台が再現されてます。

 17世紀半ばに、蒲郡三谷沖で当吉田藩の御用船が嵐で沈没した。藩主が後そのようなことがないようにと、この地に灯台を構築した。

 高さ7メイターの立派なものだ。当地豊川河口の前芝は、江戸への年貢米の回送、またお伊勢さんへの御参りでにぎやっていました。

 しかしこの灯明台の修理、管理は当地前芝村に任ぜられました。そのかかりまえは大変なものでしたでしょう。しかし、その明かりは、蒲郡の西浦、南は田原の地でも見えたといいます。想像してみました。当時の三河湾を。あかりは月のみ、真っ暗な三河湾に菜種油の灯明がぽっりと・・・。まさに闇夜のともし火です。船を操る人にとってはありがたいともし火であったことでしょう。


吉胡貝塚・・・骨は語る

2009年11月12日 | いにしえから学ぶ

F1000016 F1000019_2 F1000020 田原行きが出る。終了後本日は急ぎ帰っても仕事は出ないとみて、同地の吉胡(よしご)貝塚資料館に寄る。2年前にできた新しい施設だ。縄文晩期ー二千数百年前ーの集落跡だ。大正11年に発掘が始まり、以後の調査で340体の遺骨がでた。この渥美地方では縄文時代の埋葬人骨は、500体以上出ている。骨は色々のことを語る。

  • 骨の男女年齢はもとより、健康状態、栄養状態、出産の有無も骨盤からわかるという。
  • 虫歯、歯周病の有無
  • 抜歯の習慣があり、犬歯を抜き、前歯も一部抜く。これは成人、結婚等の節目に行うみたいだ。また門歯を櫛のように削る。痛いでしょうね。
  • 男子四十代の脛の骨では、頸骨が片方だけ細いものあり、彼は歩行困難であったろうと説明にあった。この時代に障害を持ちつつ寿命を全うしたことに感動する。当時の四十歳は決して短命ではない。

 なによりも、昭和26年に出土した19号・・50歳代と思われるの女性埋葬骨は時間を越えて現代人に訴えるものがありました。両腕には貝の装飾があり、女性のおしゃれ心は変りません。

二千年以上時が流れ、再び掘り起こされた彼らは、きっと嬉しいでしょうね。現代人に「私たちの生活をどう思いますか」と、問いかけているようでした。

 コンパクトな資料館でしたが、縄文生活のジオラマもあり、楽しかったです。

おまけに本日は、天皇在位20年記念で入館料がタダ!!でダブルラッキーでした。


「義民」飯野村の八兵衛

2009年10月28日 | いにしえから学ぶ

F1000011 豊田市、藤岡町飯野にある、義民八兵衛の碑に寄る。「義民」とは、江戸時代に、村落のため一身をささげた人をそう呼ぶ。

碑文によると、時は宝暦、不作が続き飢え死にを待つだけの事態になり、飯野の八兵衛が、近隣の迫、舞木、四郷の衆、千二百人余の集会を持ち、その中より三百五人が江戸の挙母藩邸へ直訴する。要求は通り、租税は下がり、お助け米まででた。しかし定法どうり、八兵衛をはじめ、六名が斬首となった。八兵衛二十七才であった。

仕事であっちこっち行った時、こうした義民の碑をよく見る。そして寄ってみる。それらには共通点がある。江戸時代には、こうして死を覚悟して訴えのある場合、それを吟味し、ときにはその要求を認めることがある。民衆は最後の手段として、禁じられた直訴を行う。これは当時では、合理的なルールであろう。そして命を村落のために投げ出した「義民」の女房子供等の面倒は村がみるという、暗黙の約束があったのだろう。また、「義民」の御霊への感謝、畏れをあらわして神社や、義民碑を建立している。この碑にも、上に「一村追弔」(村全体で弔います)との文字が記されている。


江戸時代の公共事業

2009年10月23日 | いにしえから学ぶ

F1000003 名古屋東部にある牧野が池公園を歩く。この池は周囲3キロのため池です。看板によると、江戸時代のはじめ1646年に尾張郡奉行の勝野太郎左衛門の開削と書いてあった。

ここらは丘陵地帯で水利が悪く、水田には適さなかった。当時この高針村では、秋の祭りでも粟餅(あわもち)しかつくれなかった。その困窮を哀れみ、ため池の事業を始めたという。近在の農民を動員してやったのでしょう。いわゆる「公共事業」です。その結果、百二十町歩の水田ができ、その産出米は、三千石になったという。爾来二十世紀まで旱魃の害にあったことがなかったという。このようなきわめて「わかりのよい」事業っていいですね。

今、政権が変り,八ッ場ダムが途上で中止になりました。計画されて五十数年だそうです。下流地域の治水、水利によいと・・・いうことで始まりました。住民にとっては、きわめてて「わかりにくい」ことで、人生を振り回されてしまいました。牧野が池は、現在灌漑の役を終え、市民の憩いの場となってますが、周辺の町名に「牧の原」、「牧の里」とあり、役に立った「公共事業」だったと思います。

八ッ場ダム問題では、どちらがよいかは、個人としてわかりませんが、三百年もの長きにわたり、住民に恩恵をもたらしてくれるような「公共事業」こそ進め、膨大な税金の無駄遣いはなくしてほしいですね。


郡上観光その2

2009年09月29日 | いにしえから学ぶ

Img_0994 郡上町歩き・・その2

郡上の積翠城から下がった所に、「宝暦一揆」の記念碑がありました。「傘連判状」の石碑です。からかさ連判状とは、傘を拡げ、傘の骨のように名を連ねた書状です。こうすれば、誰が主導者かわかりません。江戸時代の一揆にはよくみられます。

この宝暦一揆は、百姓が唯一勝ち取った騒動といわれてます。五年にわたる、長い闘いでした。郡上藩の枠を超え、江戸表にでて、幕府重臣への駕籠訴(恐れながらと行列に直訴)をする。これは死罪にあたるだろう。また最終手段の箱訴(目安箱に直訴)までおこない、裁判沙汰となる。

結局のところ、老中の免職、郡上藩主金森家のお家断絶等の裁き、勿論百姓の獄門、死罪、遠島はありました。写真の連判状にも獄門、死罪となった定次郎、喜四郎、善右衛門、藤次郎等の名がみられます。  以上郡上のパンフ等より。

生きるためには村落を代表して命を投げ出さねばならん時代でした。今は命をなげだすことはなく選挙で済んでしまう?時代です。

一揆推進派を「立ち者」といい、反対派、脱落者を「寝者」といい、村落共同体を二つにわけて、深刻な対立があったみたいです。その点は現代と同じですね。