葬儀について その3
-仏教が取り組む葬儀の意味と意義-
平成お年7月15日 在家仏教協会 札幌会場定期講演会講演より
北海道深川市丸山寺住職 高畑 俊孝
浄土真宗-浄土真宗の葬儀は仏式葬儀としては例外的といえます。最大の違いは死者を供養しないということです。その理由は二つあります。一つは、浄土真宗の門徒として阿弥陀仏を信じ念仏を唱えた者であれば、死と共に阿弥陀仏によって極楽浄土に迎え入れられているので、僧や遺族がお経を唱えで成仏を祈る必要がない理由。もう一つは浄土真宗では礼拝の対象はあくまも阿弥陀仏あって、死者ではないという理由。こうした態度を取るのは、他力本願という宗旨に忠実であろうとするためです。一切衆生は阿弥陀仏のご誓願によつて極楽浄土への往生が決まっているので、我々に出来ることは阿弥陀仏の名を唱える念仏によって感謝することだけだとされます。
読経念仏により往生させようとか、死者に引導を与えようとすることは、自力行なるので、避けられます。また民俗信仰的な行為も排されます。
それでは何の為に葬儀をするかといえば、故人の立場からいえば往生出来たことに感謝を表すためであり、葬儀を主導する導師は、故人に代わつて報謝の読経をするとされ、遺族や会葬者の立場からいえば、死は誰にも避けられない世の無常をに思いを致し、阿弥陀仏の救いの有り難さを再認識することだとされています。
禅 宗-現代葬儀の原型を作ったのは、禅宗の果たした役割が大きいと言えます。鎌倉、室町時代に禅宗の葬儀にて遺影や位牌が用いられるようになりました。他の宗派でも禅宗の葬儀の形を取り入れているものが多くあります。
禅宗の教えの根本は、日常の「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」行く、止まる、座る、寝る、全てが修行であり、その中に悟りがあると説きます。葬儀も例外でなく、「清規(しんぎ)」と呼ばれる修行規定の中に、次第作法が定められています。
禅宗の葬儀の特長は、授戒と引導にあります。
禅宗の葬儀では教理と儀礼が緊密こ結びついています。
僧の葬儀法を在家の人に応用するために没後作僧(ぼつさぞう)(死者に対して出家の儀礼を行うこと)の中で核となるのが受戒です。死者はこの儀礼を受けるより戒律を授かり、正式の仏弟子(出家者)になります。その証として戒名と血脈が与えられます。血脈とは教えが師から弟子へ脈々と伝わるこぞを血の流れにたとえたものです。「引導」は本来人々を仏教の教えに導いて、煩悩による苦しみから救うことを表す言葉です。これが葬儀の中心儀礼になっています。
没後作僧において戒を授け僧にはしたが、それでは足りない。仏法の心髄を悟ってこそ「仏になる」ことが出来るとし、受戒と引導、言い換えると行と教え、この二面のコンビネーションで成仏へと導くのが禅宗の葬儀です。
日蓮宗-日蓮宗の葬儀の目的は、死者の霊を霊山浄土に導くこととされます。霊山とは霊鷲山の略で「法華経」に、我々の住む現世は実は浄土であり、その中心にそびえるのが霊鷲山で釈迦は今もそこで説法を続けていると言います。これが霊山浄土です。その浄土におもむいて釈迦に拝謁することを霊山往請(りょうぜんおうけい)といいます。
この霊山往請(りようせんおうけい)の信仰は浄土信仰と本質的に異なる点があります。極楽は西方十万億土つまり現世とは違った世界である。それ故この生身ではいくことは出来ず、肉体を捨てた後阿弥陀の来迎をえていけることが出来る
これに対して霊山浄土は凡夫には見えないもの、現世に現存しているものであるから、確固たる信心をもてば、今すぐに目にすることができのです。もちろん死後も迷いのもととなる肉を脱ぎ捨てれば、霊山の釈迦に直参できる。法華信者は間違いなく霊山浄土に赴けるというのが、日蓮宗の葬儀なのです。
日蓮宗の葬儀のポイントは、お題目を唱え、法華経を読誦し、その功徳を生者 死者に分け与えることにあります。お題目が「妙戒」(すぐれた、不可思議な戒)で、それを信じ、保つことが基本であり、そこから葬儀式では唱題がそのまま戒を保ち、戒徳を回向することになります。 つづく
本多碩峯 参与 77001-0042288-000