高野山真言宗管長
総本山金剛峯寺座主
松長 有慶
三、現世の御利益(その1)
お寺や神社にお参りすると、ずらりと御祈祷札が並べられているところがあります。そこには家内安全、商売繁盛、息災延命、病気平癒から始まって、受験合格、良縁成就など数十項目の祈願内容がそれぞれ印刷され、その下に各自の名前と年齢が書き込めるようになっています。
日本人の日常生活上の身近な願望の数々が、これらの御祈祷札の中に込められているとみていいでしょう。だがこうした庶民のささやかな日常生活の願いを神仏の前で祈る行為を現世利益といって軽視する方がいます。
確かに神社やお寺にお参りして、そこぼくのお賽銭を投げ入れて手を合わせて拝む、そのついでに御祈願も頼むという手軽な信心の方もいないわけではありません。
けれども神社やお寺の本堂の前で、熱心に祈り続けている人もよく見かけます。時には素足になってお百度を踏んで何事かを祈っておられる方もおられます。このような方に出会った時には、その真撃な祈りの姿にこちらの方が胸打たれます。その必死に祈る姿を、一概に現世利益だといって頭から否定していい訳がありません。
第二次世界大戦が終わって、日本が焼け野原から復興し始めた頃、雨後の竹の子と喩えられたように、沢山の新興宗教が続々と名乗りをあげました。そしてそれぞれの宗教が病気治しをはじめ数々の現世利益を掲げて布教に努めました。日本人全体が衣食住のいずれも極端に飢えていた時代でしたので、これらの宗教のほとんどは急激に教線を拡大しました。 一方、昭和二十年代から三十年代にかけては、西洋文化を無条件に礼賛し、合理主義的な思考が幅を利かせ、科学技術万能の趨勢(すうせい)が時代を風靡しておりました。この時期に日本の知識階級の人々からは、お大師さまの教え、真言密教も、あまたの新興宗教とそれほど区別されず、呪術的だ、前近代的の思想だと、漠然と軽視されるような風潮がありました。
私たち真言宗の若者たちは悶々としながら、何とかこのような時代の趨勢を立て直したいと思いましたが、有効な手段は見つかりませんでした。私と同じく真言宗の僧侶で、学問を志していた友人の一人は、アメリカに留学し、アメリカ人の宗教、とくにカルトの研究を調査して、アメリカ人の宗教もまた当時日本で常識のように思われていた近代的、合理的、理性的な宗教とは限らないという報告を、私に寄せてくれました。
またイエスの病気治しの事績の研究をしているプロテスタントのクリスチャンの友人と語りあい、キリスト教が現世利益にはまったくかかわらない、もっぱら心の問題だけを説く宗教だとする、敗戦直後の日本人の一般的な常識がどれほどいい加減なものであったかを知りました。
このようにして、病気治しをはじめとする現世利益が、世界のほとんどの宗教の中でも、かなり重要な部門を占めるということに気づいたのです。 (つづく)
本多碩峯 参与 77001-0042288-000