いのり一生かせいのち一
二、見えないもの(その3)
高野山真言宗管長
総本山金剛峯寺座主 松長 有慶
昨年三月十一日、東日本の太平洋岸を襲った大地震と大津波、それに伴う福島の原発の爆発事故などにより、二万人近くの人命が失われました。テレビの映像を通じて、その悲惨な状況を知った私たちは、一人でも多くの人の命が助かって欲しいと、我を忘れて祈りました。
数日たち被害の状況が明らかになると、これらの災害によって犠牲となられた膨大な数にのぼる方々の御霊安かれと今日まで祈り続けてきました。
日頃、神仏に対して無関心な人たちも、この一年ほどの間は各種の会合の冒頭で取り上げられた、黙祷という儀礼に従った経儀をお持ちの方も少なくないはずです。
「無自覚でも、人間は宗教的な行為を行っている。慰霊の場で、天に向かい死者に祈りをささげる、という行為は神仏ではなく人間を聖なるものととらえる人間崇拝が顕著になっている一つの表れだ」という三木英大阪国際大教授の意見(読売新聞、平成二十四年一月七日) に、私は違和感を持ちますが、現代の日本人の宗教観の一面を表わしているともいえます。
慰霊の行事は亡くなった方の穏やかな成仏を祈るのが本来の目的であって、神仏の代わりに人間を尊崇しようとする儀礼ではありません。でもこうした考えは、三木教授だけではなく、現代社会に生きる一般の方々の宗教に対する共通の認識とみるべきでしょう。
今回の東日本大震災を通じて、なんらかの宗教を信じる人も、無神論者を棟模する人にとっても、「祈り」という行為をどのように受け取るべきか、問題になっていることは確かです。
大震災の後、現地にボランティアとして入り、被害者の心のケアに当たってこられたある宗教者が、被害を受けてこころの傷を負っている人びとに向かい合い、宗教者としてのペースで癒しに導くよりも、ただひたすらに聞き役に徹し、その方々の悩み苦しみを自分を超えた存在に渡していくことが必要だと語っておられます。
復興のお手伝いをしながら被災者と語り合い、共に亡き人の冥福を祈りながら、こころの傷を目に見えぬ大自然の懐の中に繋いでいく、これも宗教者の被災者に対する祈りの一つのかたちかも知れません。
改めて神社、仏閣に参拝し、祈願することがなくても、無自覚に漠然と抱く自己を超えたものとの繋がりの感覚と、先祖、神仏、世間に対して持つおかげ棟の念は平生、自らを無宗教と思っている人々の中にも存在します。
それは「無自覚の宗教性」というべき心情で、この無自覚の宗教性が今回のような震災の時に一般の人たちの中に眠っていたものがフツと出てくるのではなかろうか(大阪大学稲場圭信准教授『宗教的利他主義』弘文堂、二十三年)と言われるのも、もっともなことです。
本多碩峯 参与 770001-42288