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有王と納骨    文学に見える高野山千二百年点描

2011-10-02 22:06:48 | 高野山
 

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文学に見える高野山千二百年点描

有王と納骨       高野山高等学校教諭  山本 七重

 歌謡曲に「骨まで愛して」という曲がありますが、学生時代のコンパの時、この曲を「骨(こつ)まで愛して」と呼んだ学生がいました。もちろん当の本人は知らずに読んだのですが、「少し深イイ、読み方だなあ」と感心したのを覚えています。
 さて、日本人と骨や納骨についての関わりや信仰は大変古く、文学作品でいいますと奈良時代に成立した「万葉集」に、骨を散葬にした歌が詠まれているほか、その他の説話集などにも様々な形で骨や納骨の話が描かれています。
 その中で、高野山と納骨といえば、『平家物語』に有王の説話があります。この有王の話とは、平家打倒の謀議が発覚して、鬼ヶ島に流され非業の死を遂げた俊寛の遺骨を、忠臣であった有王が首にかけ高野山に登山納骨し、自らは蓮華谷の法師となって諸国行脚を行い俊寛の後世を弔った、というものです。
 この俊寛が鬼界ヶ島に流された話は、歌舞伎や菊池寛の小説などでも描かれており、悲劇の主人公として人々の涙をさそってきましたが、有王が俊寛の骨を高野山に納める話自体は、高野山への納骨信仰が根底にあります。
 高野山について考えるとき、どうしても外せない問題の一つに納骨信仰が全国的に広まったのは鎌倉時代であり、有名な工や聖の活動によるところが大きいといわれています。
 なお、物語の中で有王は蓮華谷の法師となったとありますが、この蓮華谷とは高野山の一の橋口付近にあった高野聖の拠点であり、高野聖はそこから地方に赴き勧進・勧化の活動や、唱導による鎮魂(供養)、高野山への納骨の風習など広める役割を担っていました。
 この有王と俊寛の説話は、西日本を中心として各地に分布しており、多くのお墓や史跡が残っています。これは、有王や高野聖たちがこの話を各地に語り、高野山への結縁や納骨を勧めた証拠であり、多くの名もなき高野聖たちの活動に感慨を覚えます。
                                           合掌                                                         

Sashie10
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