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高槻成紀のホームページ

「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

最終講義のご報告

2015-03-01 08:24:17 | 最終講義
最終講義のご報告
 ご案内していました最終講義を予定どおり3月7日におこないました。私の研究の紹介、生い立ち、私がなぜこの研究をすることになったかなどについて話しました。研究の各論のほか、動植物をよく観察するという研究スタイルの大切さや、研究というのはコツコツと粘り強く継続することが大切だということ、本を書くことの意味、私にとって論文を書くことなどについても話しました。


最終講義で冗談をいう

 講義の内容はこちらをごらんください。<最終講義
 また最終講義の感想などもご覧いただけます。
 最終講義とはどういうものになるかわからない部分がありましたが、私の「伝えたい」という思いと、聞き手の「聞こう」という気持ちが交流しあったようでした。200人を超える方が集まってくださり、会場は満員だったにもかかわらず静かでした。「静か」にもいろいろあるでしょうが、その場の空気は真空であるかと思えるほど静寂で、私のことばが一人一人の胸に入って行くという感覚を得ました。すばらしいものになったと思います。
 私は子供の頃から物事に熱中するとほかのことがわからなくなり、忘れ物をしたりして、周囲にご迷惑をかけることが多く、無事最終講義の日を迎えることができたのは、皆様のおかげと感謝しています。
 会場には、私が東北大学の学生のころに知り合った人、北海道、青森、静岡、大阪、香川、愛媛、宮崎などずいぶん遠くから来てくれた人もありました。
 その後、懇親会があり、これも広いホールにいっぱいの皆さんが集まってくださいました。そして、来賓の方々が心のこもったご挨拶をしてくださいました。とくに樋口広芳先生、三浦慎悟先生のことばは心に染みました。


思い出を紹介する伊藤健彦さん(鳥取大)の話を聴く聴衆。手前は高槻と孫

それから学生の皆さんから手作りのプレゼントをたくさんいただき、感激しました。


研究室の落合さんから花束をもらう


妻知子とともにお祝いの花束をもらう


絵の好きな卒業生から動物の絵を描いたプレートをもらう

 私は胸がいっぱいで、自分の気持ちを表す適切なことばがみつからず、お礼をこめて「ふるさと」の歌をギターを弾きながら歌いました。会場は大合唱となり、ホールに歌声が響きました。それは私にとって忘れがたい思い出になりました。
 本当にありがたく、うれしいものになりました。準備をしていただいた南正人先生と学生のみなさんに深く感謝します。


集合写真 1


集合写真 2

 私もこれで大学を「卒業」しますが、この最終講義と懇親会により、すばらしい門出になりました。参加された皆様、お一人お一人にはお礼を申し上げることはできませんが、衷心のお礼を申し上げます。また、今日まで私と生き物を調べる喜びを共有し、私を支えてくださいました多くの皆様、本当にありがとうございました。

最終講義に参加した人からのメッセージ
 会場に用紙が用意されており、メッセージをいただきましたので紹介します。人数が多すぎて記入用紙が足りなくなったのは残念でした。

結びに

2015-03-01 01:01:26 | 最終講義
 長いようで短かった私の大学人としての時間も結びに近づいた。今の私の思いを言えば、こんなにもいろいろなことができたとう思いと、これだけしかできなかったかという思いが相半ばしている。
 さまざまな動植物を調べてきたが、振り返って思うのは、地球に生を受けたものとして、これら動植物と人間とがよりよい関係を築かなければならないということ、そしてそのために自分の研究が少しでも役に立ちたいという思いである。
 これだけしかできなかったという思いはあるが、それはすべて能力が足りなかったからだというほかはない。それでもはっきり言えるのは、与えられた能力の範囲で努力は惜しまなかったということ。そのことに深い満足感がある。
 満足感とともにあるのは謝意である。私の両親は、引揚者として、自分たちが生きるのが精一杯であったはずなのに、私の生き物好きを暖かく見守り、大学院に進むまで支えてくれた。


父孝男と母豊子 1952年頃 鳥取県倉吉市にて


 私は大学院時代に結婚したが、妻知子は手書きの学位論文を書くのを手伝ってくれた。そのとき以来40年近く、いつも笑顔で家庭を守ってくれ、私を励ましてくれた。


1993年 仙台の自宅にて


 野外調査では多くの地元の人に協力いただいた。研究上出会った人々や学生とともに、多くの人に支えてもらうことができた。
 ものごとに熱中しすぎて物忘れをしがちな私がかろうじて無事に退官の日を迎えることができたのは、多くの人に支えられてのことだった。一日一日を積み重ねた星霜が経ち、いま階前の梧葉には秋風が吹こうとしている。私はこれらの日々に感謝しながら、ユニフォームを脱ぐことにしよう。
 大学を去るとはいえ、自然を観察するということに終わりはない。幸い私の研究には大規模な機器をはいらず、双眼鏡とルーペ、それに好奇心さえあればできることだ。今のところ、目も足腰もまだ大丈夫そうなので、これからも野山に出かけて動植物を観察することを続けたい。そして、自分が住む土地の動植物のことを知ることの歓びを若い人に伝える努力をもう少し続けたいと思っている。



・・・・・
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一隅を照らす

2015-03-01 01:01:25 | 最終講義
 私は大きな研究成果をあげることはなかったが、自分の与えられた持ち場で「一隅を照ら」して来たつもりである。
 私の最終講義を聞きに遠いところからの人も含めて多くの方が集まってくださると聞き、感激している。本当にうれしいことだ。



 この有名なことばの最後の「慍」は「いきどおる」(あるいは「いかる」)と読むようだ。したがって、
「朋(とも)あり、遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずして、いきどおらず」となる。これは今の私にとっては次のように響く。
「友達がいて、遠くからも来てくれた。これほど嬉しいことがあろうか。有名な研究者になることもなかったが、それがどうしたというのだ。わかる人にはわかるし、今わからなくても、私の書いたものを読んで、知ることの歓びを共有してくれる人は必ずいる。いや、人が知らなくても、私の調べたことは、お天道様は知っておられる」と。

つづく

恵まれていたということ

2015-03-01 01:01:24 | 最終講義
 私はどちらかといえば内気で面倒くさがりなほうである。そのためさほど多くの人に出会ったとはいえないが、本物の「自然好き」に出会うことができたのは幸いであった。
 幸運といえば、野外調査にはさまざまな危険が伴ない、細心の注意をしていても、思いもかけない事故が起きるのは避けがたいことである。しかし、40年間野外調査をしていて、自分自身も、多くの学生も事故という事故を起こすことがなかった。私はこの点でも幸運であった。
 私は病弱な子供で、よく病気になった。母はよく「隣の市(まち)で風邪がはやっても、まっさきにひくんだから」と言っていた。寝ていて高熱のため天井がグラグラし、鮮やかな赤や緑色に変化するのが恐ろしかった記憶がある。消化系も弱く、よくお腹をこわした。
 だが、野山を歩いているうちに徐々に丈夫になり、30代後半からは体力にも自信が持てるようになった。だから、自然は私をいざない、健康にしてくれたのだという感謝の気持ちがある。
 2002年からモンゴルで調査をするようになったが、数年経ったとき、朝日新聞がある写真を公開した。それは現在の中国黒竜江省のホロンバイルと呼ばれる草原を歩く日本兵の写真であった。1939年の写真である。偶然ながら私はこのホロンバイル草原につながるモンゴル東部の草原で調査をしていたときに、日本の学生とモンゴルの若者がキャンプに戻ってくる写真を撮影していた。そうであったから、私は日本兵の写真を見たときに、その偶然に一驚したのであった。


モンゴル草原を歩く日本とモンゴルの若者(2004年8月)


 同じ二十代前半の日本の若者が、同じ草原を歩いている。だが、胸に思うことはまったく違っていたはずだ。
 私は戦後間もなしに生まれ、平和な時代に、好きな職業に就くことができた。そしてモンゴルの野生動物の保全のための研究をしている。なんという違いであろうか。誰も自分の生まれる社会も時代も選ぶことはできない。私はそのことに恵まれていた。天恵というべきであろう。

つづく


展示

2015-03-01 01:01:23 | 最終講義
 麻布大学に来たとき、新しい獣医学部棟に展示コーナーがあるのに中はがらんどうだった。一方、標本室には立派な標本があることも知った。前任の東京大学総合研究博物館では非常に高度な展示を見、自分でも企画をした経験があったので、この空間を利用して学術展示をすることにした。ちょうどそのころ、同窓生の折坂金弘氏から馬具が寄贈されたので、馬具展を開催し、それから年3、4回の展示を継続してきた。とくにモンゴル展はモンゴル自然史博物館との共催で実施し、充実したものとなった。


学術展示「草原の国の動物たち:モンゴル」のようす


 また故増井光子先生の展示も印象に残っている。このときは追悼文集も作った。


学術展示「願えば叶う-増井光子先生記念展示」のポスター


つづく

標本作り

2015-03-01 01:01:22 | 最終講義
 1984年金華山でのシカの大量死の前にも頭骨を見つけると回収してきた。そのことが自分の研究に直結するわけではなかったが、生物学に携わるものとして当然すべきことだという気持ちがあった。それは少年時代に昆虫標本を作っていたことによるのかもしれない。東京大学総合研究博物館に招かれたのは、博物館側に、これからの博物館には生態学の視点が必要だという洞察があったためのようだ。それに対しては私なりの貢献をしたつもりだが、私としては標本を集め、整理することの重要性を学ばせてもらったように思う。博物館では中坪啓人君というすぐれた標本作成者に恵まれ、質の高い交連骨格標本を作ってもらうことができた。
 伝統ある標本群に自分の標本が加わることは、大河に小さな水流を注ぎ込むかのような歓びがあった。
 標本作りは麻布大学でも続けており、学生の協力を得て、1000以上の標本を作った。これらの標本は実習でのスケッチなどにも活用している。
 研究者として論文を書くというのとは違う形で、学問に貢献できるという手応えがあった。将来、この標本を使って研究する人が現れるに違いない。


ウマの頭骨を観る(2009年, モンゴル)


つづく

種を蒔く

2015-03-01 01:01:21 | 最終講義
 若い人向けの本を書いたときに、読者から感想を書いた手紙をもらった。そのとき、私は自分が書いた文章がその子の心に届いたのだと感じた。
 つい先月のこと、ある小学3年生から葉書をもらった。私は昨年「このは」という雑誌に動物の骨について寄稿したのだが、それを読んだこの少年が骨について20近くの質問をくれた。彼はころんで病院に行くほど頭を強打したのだが、ふつうの子と違うのは、そのことで骨に興味をもったらしく、子供らしいさまざまな質問をしてきたのだった。私はひとつひとつの質問に返事を書いたのだが、届いた葉書は、それをもとにした作品が文部科学大臣賞を受賞したという嬉しい報告だった。このときも、私の書いたものがこの子の心に届いたのだという手応えを持った。
 思えば私が中学生のときに白水先生に手紙を書いて返事をいただいたとき、私の心に科学者への憧れが芽生えたのだった。
 学生といっしょに山を歩き、直接対話をして伝えることがその学生になんらかの印象を残すことがある。彼らは卒業後もそれぞれの持ち場で自然を観ることを続けてくれているようだ。


モンゴルで学生に植物の説明をする(2009年)


 だが、このようにじかに伝えることは、人が文字通り出会うことによる以外に実現のしようがない。これに対して、本に書いた内容は私が死んだあとでも読む人に影響を与える。そう思うと不思議な感動がある。それは文を書くことによって、人の心に種を蒔くことだと思う。

つづく

本を書く

2015-03-01 01:01:20 | 最終講義
 私は1992年に初めて「北に生きるシカたち」という本を書いた。シカとササのことを軸に、体験を交えながら書いた。この本は河合雅雄先生に望外の評価をいただき、瞬く間に売り切れた。だが、実はこの本は難産だった。どうぶつ社の久木亮一さんは「おもしろくない」と言われた。このときも私は譲歩できないところでは頑として自分を通した。結果としてはそれでよかったと思っている。この本は売り切れてしまったために長い間、手に入らなかったが2014年に丸善から復刻出版された。



 その後、7冊の本を書いた。共著を含めれば51冊になる。専門書が多いが、2006年にはもともと書きたいと思っていた若い人向けに岩波ジュニア新書の「野生動物と共存できるか」を出すことができた。この本もよく読まれ、その中の文章は中学生の国語の教科書にも掲載された。子供好きの父が生きていれば喜んでくれたに違いない。



 同じ年に「シカの生態誌」を著すことができた。これは今どき珍しい大部な本で、執筆に10年もかかってしまった。私が若い頃から没頭した研究活動と成果を集大成したものになった。



 2009年にSpringerから公表された「Sika Deer」はマッカラー先生、梶光一さんと一緒に編集をし、海外に向けてニホンジカの研究成果を紹介するものとなった。初めて欧文書の編集をしたが、充実したものであった。



 大学人として最後の年にヤマケイ新書から「唱歌「ふるさと」の生態学」を出すことができた。私は歌が好きで研究室でもよく歌をうたった。「ふるさと」は好きな歌のひとつで、その歌詞を保全生態学の視点で読み解いた。ウサギと茅場の問題は長年取り組んできたシカと植物との関係の延長線上にあったし、魚のこと、水質のこと、林業のこと、社会のことなど、私が研究と並行して関心をもってきたことも総合したものとなった。この本の出版が定年前に間に合ってありがたかった。

つづく



私にとって論文を書くということ

2015-03-01 01:01:19 | 最終講義
 2014年に生命科学の世界で論文捏造という不幸な事件が起きた。そのことを調べた調査委員会の委員長が同じことをしていたということで、生命科学の信頼を損なうことになった。こういう論文を書いても後で必ずわかる。論文があろうがなかろうが自然が変わるわけではない。
 私は論文を書くときに、たとえばシカについての論文であれば
 「おいシカ君、こういうことを書くが、いいかい?」
 と訊くような気持ちがある。自分ではそう考えたが、思い違いがあるかもしれないし、試料が少なくてたまたまそういう結果になったかもしれない。正しい像を描くために、できるだけ客観的に判断し、できるだけ多くのサンプルをとるようにしてきた。複雑な動物や植物のことを知るのは容易なことではない。まして森のことはさらに複雑であり、しかも動物そのものでも、植物そのものでもなく、それらのつながりの存在を示さなければならない。私には
 「森さん、こう考えたのですが、いいですか?」
 といわばお天道さんに訊くような気持ちがある。
 私は大論文を書くことはなかったが、160余編の論文はすべて事実に基づいている。そのことの清々しさは、あたかもモンゴルの青空のごときである。



天は穹廬(きゅうろ)に似て四野を籠蓋(ろうがい)す。天は蒼々たり、野は茫々たり。風の吹きて草を低(た)らしめ、牛羊の見ゆ
 これは好きな詩の一部だが、論文を書くことに対する私の気持ちを表すにふさわしいものがある。
天はまるでゲルのように西も東も、北も南も蓋をするように覆う。天は蒼い。限りなく蒼い。草原には草が見渡す限り広がっている。そこに風が吹くと、草がなびいて低くなり、その先に牛や羊の姿が見える。


モンゴル、ブルガン県の景色


つづく

観察

2015-03-01 01:01:18 | 最終講義
 現在の生物学は仮説検証型の研究が主流である。そのほうが問題を鋭利にし、解析を正確にできるし、実験であれば再現性の確認ができる。そのような生命現象があり、そのようなアプローチが有効な局面もあるのは確かだ。
 しかし複雑をきわめる野外の自然現象においては厳密な意味での実験はできない。
 伊谷純一郎はチンパンジーが道を横切ったときに群れの全体を確認して記述した。複数回とって統計的検討をたわけではない。樋口広芳先生のハチクマの渡りのコースは複数羽を複数年調査されているが、しかし仮に1例であったとしても、その事実が知られたことの意味は限りなく大きい。
 おそらく複雑な現象に対するこれからのアプローチにおいては、単純な仮説検証と再現性確認が見直しを迫られるであろう。歴史科学を含め、再現性のない現象は無数にあり、科学の俎上にのせるべきものも多い。私は生物の本質に迫るには伝統的な観察が不可欠であると信じる。
 このことで思い出すのは、記載の価値を問われたローレンツが言った次の言葉である。
「なぜなら、どんな科学、物理学や化学ですら、観察からはじまるものだからです。今日なお、記載ということはアメリカ心理学から多少軽蔑の念を持って見られています。それはおろかなことです。科学の対象が複雑であればあるほど、記載の段階はますます重要です。1匹の単純なアメーバでさえ、太陽系よりずっとずっと複雑です。何百万倍も複雑なのです。したがって、観察や記載にもっと多くの注意を払わねばならないのです」

 また、カナダのデビッド・スズキはこう言った。

「自然の一部に焦点をあてて、自分に都合よく制御された実験室という空間のなかで調べているものは、もう自然ではなく、人工的なものにすぎない。気候や季節といった背景を剥ぎとられ、つねに変化する温度と光も奪われたあとに残るものは、極度に単純化された自然の虚像でしかない。」


アファンの森でアサギマダラをつかまえて喜ぶ(2009年)


つづく

研究展開の背景

2015-03-01 01:01:17 | 最終講義
 これらの研究成果が生まれた背景を考えてみると、シカと植物に関連するものは最初から始まって現在にいたるまでコンスタントに書いている。これは私の根気強い性格によるものだと思う。
 保全生態学的な研究は1990年代から書くようになったが、これは岩手県でのシカの調査を始めたとき、シカの農業被害の深刻さを痛感したからであるが、同時にその頃から保全生態学の隆盛したことに呼応したものでもあった。
 アジアの野生動物に関する論文は1990年代の後半から書くようになったが、これはアメリカを訪問したことが契機になったパンダ調査体験と留学生との出会いによるものである。
 このころから生態学一般や教育に関する著作が増えるが、これは研究者としてそうした著作を求められる年齢になったということだと思う。いわば学会における役回りということであろう。
 シカ以外の動物は東大の院生と麻布大学の学生の指導をする過程で必要に応じて始めたことによる。そのことは間違いないのだが、私の中では少年時代に夢中になった昆虫のことをもう一度調べてみたいという気持ちがあったことも否定できない。
 そのように考えれば、アジアの野生動物調査も、少年の頃に聞いた両親の思い出話を聞いて大陸に憧れを持ったことが遠因になっているような気もする。
 いま自分の研究を振り返ると、私は少年の頃に昆虫採集に夢中になり、そこから自然観察をするようになって、それをずっと続けてきた。そして大学の選択や人との出会いなどによってシカの研究をすることになり、自分なりに熱中して研究をしてきたが、そのときもいつでも野山を歩いて動植物の観察は続けてきた。その後、学生を指導する立場になると、さまざまな動植物を研究対象にするようになった。そして、それを自分でも研究上の展開ととらえてきた。事実、私は研究を始めたときは、群落側からシカを環境要因のひとつとして捉えていた。その後、シカの食性を調べる過程で、シカ側から捉えることの必要も感じて、そのような研究も始めた。そして、今ではシカを生態系に影響を及ぼす種として捉え、その影響を植物だけでなく、その波及効果としての小動物にまで広げて調べている。それは研究の展開には違いない。だが、その深層には少年時代の昆虫観察をしていた楽しさに回帰したい気持ちがあったと見ることもでき、そのほうが自分の気持ちに正直な気持ちがする。この最終講義のタイトルを「回帰」とした所以である。


モンゴル草原で珍しい蝶をみつけて夢中でネットを振る(2009年8月)


つづく

研究成果とその展開

2015-03-01 01:01:16 | 最終講義
 私は40年近い研究生活でこれまでに163編の論文を書いた。このほか33の総説、7の書評、24の意見、その他の文章を59編書いた。その内容を振り返ると、次のように展開したというまとめも可能であろう。
 出発点はシカが植物群落に及ぼす影響であった。その過程でシカの食性分析に取り組んだ。
 シカ側の研究は金華山のシカ個体数の追跡と年齢構成などから、個体数そのものでなく、シカの生活史と関連した側面を解明した。そして生息密度との関連から栄養状態の指標である蓄積脂肪の調査もおこなった。また標本を収集し、形態学的な分析もした。
 食性そのものは各地の事例蓄積をするとともに、同じ反芻獣であるカモシカとの比較をした。またモウコガゼル、タヒ、アジアゾウなどの草食獣、ニホンザル、ヒグマ、ツキノワグマ、タヌキ、テンなどの食肉目、カヤネズミ、ヤマネなどの齧歯目、オガサワラオオコウモリ、フクロウなどの食性も手がけた。
 植物側では、群落への影響、ブナ林の更新への影響、昆虫への間接効果へと発展した。またシカの主要な食物であるササについて形態と生態との接点をつなぐ研究をした。これはパンダのプロジェクトにもつながった。
 動物の食性と植物との関連として、動物による種子散布の研究にも挑戦し、シカ、サル、タヌキ、テンなどによる種子散布の研究も進めている。
 

研究の展開を示す図


 このように、出発点のシカと植物という大きな塊りから、出芽するようにいくつかの研究が展開した。さまざまな異分野があるようにもみえるが、これらの通底するのは、生物同士のつながりということである。

つづく

アファンの森での調査

2015-03-01 01:01:15 | 最終講義
 C.W.ニコルさんとは四十代に岩手県のシカの調査をしていたときにシカについてのテレビ番組を作ることでご一緒したことがある。そのあとご無沙汰していたが、学生がアファンの森で調査をすることになり、麻布大学と学術交流協定を締結して、協同研究を始めることになった。


ニコルさんと話す(岩手県五葉山にて, 41歳, 1991年)



 アファンの森では丁寧に森林管理をしているので、その効果を動植物を通じて評価するという視点から動植物の調査に取り組んだ。そのとき、生き物のつながりという視点をとり、これを「リンク」と呼ぶことにした。代表的な例は森林の管理のしかたによって下生えの草本類の開花状態が違い、それに応じて訪花昆虫が大きく変化することを示したことだった。また動物の糞を分解する糞虫、死体を分解するシデムシ類を調査した。分解昆虫はふつうは「鼻つまみ者」であるが、実際に調べてみると、森林におけるその働きに驚かされた。成果発表を聞いたニコルさんはこうした研究を大いに喜んでくれた。

つづく

その後のシカ研究

2015-03-01 01:01:14 | 最終講義
 シカから始まった研究がさまざまな動物に展開したからといって、シカの研究が終わったのではない。シカの食性の論文も書き続けているし、シカそのものについても、長年取り溜めた計測値などの膨大なデータの解析を少しずつ進めている。標本も蓄積した。すでに久保麦野さんとの共同で数編の質の高い論文を公表することができた。
 私が研究を始めた頃はシカと植物の関係というのはきわめて特殊な現象だと思われていた。だが1990年代から各地でシカが増えて、農林業被害だけでなく自然植生にも強い影響が出るようになり、研究する人も増えてきた。2009年に「Conservation Biology」に日本でのシカが植生に及ぼす影響についての総説を書いた。


シカと植物の関係に取り組んでいた頃(52歳, 2002年, 岩手県)


 シカの影響は植物群落を変化させるが、そのことはそこに生息する動物へも波及する。麻布大学の院生である山田穂高君は奥多摩で東京都水道局が作った柵の内外で植物、昆虫、土壌流失などを調べて、「International Journal of Forestry Research」に論文を書いた。


シカの直接効果と間接効果をまとめた図


 シカの研究は持続しているが、その内容は当初予想もしなかった昆虫にまで広がっている。

つづく

学生の指導

2015-03-01 01:01:13 | 最終講義
 東大の院生にはシカだけでなく、ツキノワグマ、ヒグマ、ニホンザル、マングース、アカネズミ、オガサワラオオコモウリ、タヌキ、モンゴルの草原などのテーマに取り組んでもらった。


佐藤喜和君(右手前)のヒグマの調査のためドラム缶檻を運ぶ(1999年)


 東大では1年に2、3人程度の院生を指導していたが、麻布大学に来てからは1学年で10人近くもの学生を指導することになった。それだけでなく、講義や実習の数もたいへん多い。このため研究とのやりくりがたいへんになった。そこで、近場で確実に結果がでるような対象動物やテーマを工都市緑地の動物、里山の動物などに拡げると同時に、長野県の八ヶ岳、アファンの森、山梨県の乙女高原などでさまざまな動物を対象とした。哺乳類としてはシカ、カモシカ、タヌキ、ハクビシン、アライグマ、テン、ヤマネ、カヤネズミ、コウモリ類のほか動物園のゾウ、サイ、バクなど、鳥類ではフクロウ、両生類ではカエル類、トウキョウサンショウウオ、そのほか昆虫類も調べた。 
 私は東北大学で大学院を修了したが、そこでは学生は4年生で研究室に配属になる。4年生はいろいろ体験をして研究室に慣れればよくて、大学院になって本格的に所属するという雰囲気だった。東京大学では大学院組織だったので、相手をするのは院生と留学生だった。したがって研究は自分で好奇心をもって切り開いてゆくのが当然のことだと思ってきた。そのまま麻布大学に来たために、二十歳前後の学生を指導することに不慣れだったし、受動的な姿勢の学生には当惑した。そのために、研究に対して真剣に取り組まない学生にはきびしいことも言った。しばらくして、今の学生はそういう体験をしないから、初めてきびしいことばを聞いて面食らうということに気づいた。ただ、それでも大学生は少なくともこうあるべきだという線は譲らなかった。当惑した学生もいたようだが、私はそれでよかったと思っている。そうしたからこそ、卒論が国際誌に掲載されるレベルになったのだと思う。

つづく