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高槻成紀のホームページ

「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

留学生との邂逅

2015-03-01 01:01:12 | 最終講義
 東京大学では中国、スリランカ、スペイン、ベネズエラからの留学生を受け入れた。中国から来た姜兆文さんはニホンジカとモウコガゼルの研究をし、それがその後のモンゴルでのモウコガゼルの調査につながった。
 初めて姜さんとゴビに行ったとき、吹雪にあって近くの店に泊めてもらったのだが、食べたインスタントラーメンが古かったらしく、二人ともお腹を下して苦しんだのはなつかしい思い出である。


姜さんと(中国内蒙古草原, 1997年)


 この研究はその後、恒川篤史さんとの共同研究となり、伊藤健彦さんの協力を得て、最新機器を使ってガゼルの長距離の季節移動が解明された。


ガゼルに発信機をつけて放逐する(2003年)


 モウコガゼルから始まったモンゴルでの研究は、その後モンゴル草原の放牧圧が草原に、また草原の昆虫類に与える影響や、タヒ(野生馬)とアカシカの食性と群落影響への比較などに発展した。この調査では帯広畜産大学の佐藤雅俊さんと群落調査をした。二人でとったプロット数は1000を超えると思う。


モンゴル草原で群落記載をする(2010年)


スリランカから来たローズ(ヴェラシンハ)さんはアジアゾウとスイギュウ、アクシスジカの種間関係を研究した。


ローズさんと(スリランカ, 1997年)


 夫君のパリタさんは熱帯雨林の哺乳類の果実利用を研究した。スペインのアイムサ(カンポス・アルセイス)さんはスリランカのアジアゾウの農業被害問題に取り組んだ。アイムサさんは現在、マレーシアのノッティンガム大学クアラルンプール校でゾウの大きなプロジェクトを進めている。

ベネズエラのカロリーナさん(ガリンデス・シルバ)さんは金華山のシカの社会順位と性ホルモン濃度の関係を調べた。


カロリーナさん(ベネズエラ出身)


アイムサさん(ノッティンガム大学)


 アイムサさんがスリランカで調査していた2004年にスマトラ沖大地震が起きてスリランカ南部を津波が襲い、多くの犠牲者が出た。アイムサさんは現地に行って救援チームを編成して救助にあたった。ローズさんたちは孤児の教育支援のために「ゾウさん基金」を立ち上げ、募金を集めて孤児に贈った。この活動は現在も継続しているが、一部の孤児は大学に進学する年齢になった。2011年の東日本大震災のときは、この孤児たちから被災者激励の手紙が届いた。

つづく

東京大学時代

2015-03-01 01:01:11 | 最終講義
 1994年に東京大学大学院農学生命科学研究科で研究することになった。教授の樋口広芳先生と助教の宮下直さんの3人でスタートした。樋口先生はすでに日本の鳥類学を代表する研究者で、精力的に論文を発表された。とくにその後研究された渡り鳥の移動経路解明は世界が注目した研究である。学生に対しておだやかではあるがきびしく質の高い研究を求められ、研究室の運営という点でも見事であった。宮下さんはクモが専門ということだったが、すぐにそれ以外の動物にも取り組んで、すぐれて生態学的な研究を精力的に進め、あっという間に日本を代表する生態学者となった。二人のすぐれた研究者に出会い、研究のきびしさとそれによって得られたすばらしい成果を見たことは私にとって大きな学びとなった。


宮下さん、深見さん(手前), 高槻, 樋口先生(1998年)


 その後、移った総合研究博物館では院生の指導と博物館活動をしたが、博物館には人類学、考古学などまったく知らない分野の一流の研究者がおられ、刺激に満ちた体験をすることができた。収蔵されている資料は文字通り日本の文化遺産の山であった。明治初期に作られた動物標本を運ぶときは、手が震えるほど緊張した。シーボルトが作った植物標本がオランダから里帰りしたとき、その標本が百数十年の時間を超えて戻って来たことに感動した。


哺乳類の骨格の展示(2003年, 東京大学総合研究博物館)


つづく



渡米

2015-03-01 01:01:10 | 最終講義
 シカの研究をしていると、日常的に北アメリカでの研究成果を目にする。そういう毎日を過ごしているうちに、どうしても現場の研究体制などを見たいと思うようになった。1981年にカリフォルニア州立大学のマッカラー(D. McCullough)博士とカナダ、カルガリー大学のガイスト(V. Geist)博士に会いに行った。
 マッカラー博士とはずっと交流が続き、その後何度か来日し、金華山にも訪問された。


マッカラー博士と(31歳, 1981年)


 ガイスト博士とは1986年にカモシカの会議があり、再会した。


三浦慎悟さん, ガイスト博士と(1986年)


 そのときにコロラド州立大学によってベイリー(J. Bailey)博士に会い、1985年と翌年、文部省(当時)の在外研究員としてコロラドで一年ほどを過ごした。


ロッキー山脈国立公園(コロラド州)にて(35歳, 1985年)


 滞在中にカナダで国際哺乳類学会があり、シャラー(G. Schaller)博士に会った。自分がシカとササのことを研究していると話したら、中国のジャイアントパンダの研究に参加しないかと誘われた。そして帰国後数度にわたって四川省でジャイアントパンダのプロジェクトの参画してササの調査をした。


パンダ調査に参加してササを調査した(36歳, 1986年)


つづく


シカの角

2015-03-01 01:01:09 | 最終講義
 シカといえば角が連想される。ウシやヤギにも角はあるが、シカの角は枝があり、毎年落ちて更新されるという点でユニークである。角は社会器官であり、オスが繁殖成功を高めるために角が「立派である」進化が起きた。そのためオスジカは角に投資をするが、その負担は大きい。したがってオスにとっては角を大きくして繁殖成功を高めるか、栄養の利用に無理をしないで生存率を高めるかのトレードオフがある。この問題は資源の乏しい金華山のような場所のシカにとって一層深刻な問題であるはずである。こうした観点から、島集団と本土集団の角を比較した。


金華山(●)と五葉山(岩手県●)のシカの角の長さと重さの関係


 同じ長さの角であれば、島集団のほうが軽かった。つまり同じ物質投資をするなら島のシカの角のほうが細く、長い。また同じ体積であれば島のシカの角のほうが軽かった。一方、主軸と枝との関係は、島のシカで枝数が少ないことはなく、また重さはむしろ島のほうが枝への配分が大きかった。
 これらのことは島のシカは限られた資源をできる限り角に投資し、できるだけ長くするとともに、枝へ配分するというやりくりをしていることを示している。
 シカの角の分析は、哺乳類が資源不足な環境において、繁殖成功と生存とのトレードオフをいかに実現するかを理解する重要なヒントを与えると思う。

つづく

シカの個体群学的研究

2015-03-01 01:01:08 | 最終講義
 金華山では1967年に日本で初めてシカの個体数調査がおこなわれ、その後、継続している。私が引き継いだ1990年代以降、毎年3月におこなってきたが、1984年と1991年の2回、シカの約半数が死亡するという出来事があった。
 シカなどの草食獣が新しい生息地に入って爆発的に増加し、資源を食べ尽くして崩壊するという「爆発崩壊モデル」は生態学の教科書にのる「定説」であった。だが、金華山では大量死はあったが、最大数の約半分で「底打ち」し、その後数年で、もとのレベルに回復した。このことは日本の植物の旺盛な生産力と関係する。大量死のあった年、私は東北大学や山形大学の協力を得て、鈴木和男君と島内を歩きに歩いて250ものシカの頭骨を回収した。


金華山で1984年に起きた大量死のときに回収したシカの頭骨群


 この試料は三浦慎悟氏らの協力を得て年齢査定された結果、死亡圧は年齢層によって違うこと、その年齢層は雌雄で大きく違うことが明らかになった。私は死体から胃内容物を採取して分析したが、枯葉や太い木の枝などが入っていて驚いた。この結果を「Ecological Research」に投稿したら、査読者から「なぜ全個体から採取していないか」というコメントが来た。私は「死体にはさまざまな状態のものがあり、胃内容物が得られるのはその一部に過ぎない。死体から胃内容物を確保する作業がいかに大変なものであるか想像願いたい。」という強い調子の反論をしたところ、そのまま受理された。自然から事実を引き出すことに対して机上の理屈を語ることに攻撃的になる自分を自己発見した思いだった。
 回収した標本から得たシカの歯を岡田あゆみさんが分析したところ、雌雄で年輪幅のパターンに違いがあることがわかった。オスはほぼ一定の年輪幅だが、メスは年輪幅が広い年と狭い年があった。南正人さん、大西信正さん、岡田あゆみさんらが継続してきた、100頭ほどのシカを識別し、出産履歴を長年追跡した結果と対応させたところ80%以上の確率で出産と年輪幅が対応していることがわかった。


金華山のシカの切歯歯根部に形成された年輪の雌雄比較


 これら膨大な試料は、並行しておこなっていた岩手県の集団と比較することができ、島集団が小型していること、歯の摩滅が速いこと、妊娠率が低く、初産年齢が大きくずれ込むことなども明らかになった。
 歯の摩滅については久保麦野氏との共同で全国のシカ集団と比較しても、金華山のシカの歯の摩滅は極端に速いことなどが示された。

つづく


日本各地のシカの食性

2015-03-01 01:01:07 | 最終講義
 金華山を皮切りに、北海道から屋久島までのシカの食性を調べた。その結果、ほかの研究者の成果も含めて、日本列島レベルで俯瞰することができるようになった。それによれば、おおむね冷温帯ではササをはじめとするイネ科が重要であるが、暖温帯では冬に常緑の低木や草本、果実、場所によってはドングリなどをよく食べるという違いがあることがわかった。


日本列島のシカ食性に占めるイネ科の割合


 植生図に代表されるように、形のあるもの、直接目に見えるものの地理的な表現は伝統的におこなわれてきたが、動物の食性のような生態現象についてはまだまだ地図が描かれることは少ない。「桜前線」などはそのひとつといえよう。こうした「生態地図」を描くのは少人数では不可能であり、各地に同じ志の人がいて初めて可能なことであり、今後発展を期待したい。


ヤクシカの糞を採取するために宮之浦岳に登るところ(34歳, 1984年)


つづく



ササを調べる

2015-03-01 01:01:06 | 最終講義
 その後、岩手県の五葉山でシカの調査に挑戦することにした。すぐに直感したのはこの山のシカにとってミヤコザサが重要な食物であるに違いないということだった。実際に糞分析をおこなってみると、直感通り、ミヤコザサがきわめて多く含まれており、冬の糞はミヤコザサだけといってよいほどだった。その理由は、ミヤコザサが林床に豊富にあり、しかも常緑であるためだ。それと重要なことは、繰り返し食べられることに耐性があることである。家畜の場合は食料が最も少なくなる冬に舎飼いにすることで、収容力の「底上げ」をする。しかし野生動物にとっては、冬に多くの植物が枯れてしまうため、夏と冬とでは生息できる動物の数が大きく違い、冬の食物量が動物の数を決める重要な意味をもつ。したがってこの食物が持続的に利用できなければならない。だが、例えば暖地のアオキの場合、再生力がないので、シカが増えると消滅してしまう。これに対してミヤコザサは何年たっても豊富にある。私はこのことの理由を探した。
 東北地方の山にはササが多い。とくに奥羽山系はネマガリダケとよばれる人の背丈を越えるササが密生する。こういう場所は雪も多く、シカはすんでいない。それはシカが蹄をもち、深い雪には沈んでしまうからだ。だが五葉山は北上山地の海岸近くにあり、雪は少ない。こういう場所に生えるのは背丈がせいぜい1mの小型のミヤコザサである。これは雪の少ないことに対する適応で、植物にとって冷たい、乾燥した風が危険なため、ミヤコザサは越冬時の芽を地表に下げるという適応をしたのだ。このためミヤコザサは稈(茎)に枝がないという、ササとしてはこれ以上ないほどの単純な構造をもっており、その寿命は1年ほどしかない。これはネマガリダケが枝をたくさんもち、葉が数年着いているのと大きく違う。したがってミヤコザサは冬に葉をシカに食べられても、翌年の光合成にダメージにならない。こういうことから、ミヤコザサがシカに食べられることに耐性があるということがわかった。野生動物が持続的に利用するためには、この採食に対して耐性があることがきわめて重要な意味をもっている。北日本のシカにとってミヤコザサは生命線といってよい。その後、シカの歯の表面の微細構造を分析したスペインのF. Rivals氏は、岩手県のシカ集団の歯にはササ独特の傷が残されていることを示した。


ミヤコザサの調査をしていた頃(42歳, 1992年)


 世界をみると冷温帯にすむシカは冬に常緑植物がない環境に暮らしている、中国大陸でもササがあるのは山東半島以南であり、日本列島だけがササが北にまで飛び出して分布している。シカとササは世界的にみてもユニークな組み合わせだといえる。

つづく


研究のスタート - 金華山のシカの食性

2015-03-01 01:01:05 | 最終講義
 金華山という島でシカが植物におよぼす影響を研究したが、植物に花がないときでも名前がわからなければならないことを思い知らされた。図鑑の検索は基本的に花でおこなうから、それではデータがとれない。花がなくても名前がわかるようになるのに一年かかった。
 植物への影響を理解する上ではシカの食性を知る必要があった。文献で探しても「シカは木や草の葉を食べる」といった当たり前の記述しかなかった。そこで博士課程のときに糞分析に挑戦した。その方法が使えることを確認し、金華山のシカの食性を糞分析で調べたところ、1)島の中でも場所により大きく違うこと、2)そのような違いはあったが、どこでもイネ科が重要であること、3)シバが多い場所では夏にはシバが多いが、冬にはシバは減るのに対して、アズマネザサは冬でも安定していることがわかった。このことからササに注目することになった。飯泉先生はあまりアドバイスをくださらなかったが、このときは「ササのことはもっと調べたらどうですか」と言われた。

つづく


東北大学

2015-03-01 01:01:04 | 最終講義
 大学に入学したのは昭和44年だった。大学紛争がピークを迎えていたため、講義がなく失望した。だが、野山を歩き、読書をする時間はたっぷりあった。東北地方の春はすばらしかった。仙台市内でもいたるところにカタクリやスミレの仲間が溢れるように咲いていた。入学した年の4月、大学の書籍部で「アユの話」とか「ゴリラとピグミーの森」など動物関係の岩波新書を数冊買って、「これから思い切り好きな本が読めるのだ」と思ったときの高揚感は今でもよく覚えている。仙台周辺の低山帯には日常的に行っていたが、飯豊(いいで)、朝日、八甲田などの高山にも登るようになった。


飯豊山にて(23歳, 1973年)


 東北大学の生物学教室の図書室は充実しており、生態学関係の図書や雑誌は豊富にあった。シーボルトの「Fauna Japonica」があり、伝統を感じた。すべての図書、雑誌に貼ってある「東北帝国大学」のシールの「帝国」が黒く墨で塗られているのを見て、敗戦ということの意味に想いを馳せた。
 事情があって植物生態学の研究室に入室した。吉岡邦二先生に金華山に連れて行ってもらい、そこでシカと植物の関係を研究することにした。吉岡先生は退官され、大学院は飯泉茂先生に指導していただいた。飯泉先生は細かいことは言われなかったが、自由な発想で既成概念にとらわれないようにしなさいと言われた。当時植物生態学は群落分類学が盛んだったが、飯泉先生は生理生態学的なアプローチがお得意であった。また若い頃、家畜による草本群落への影響の調査をしておられ、ウシによる種子散布についての研究は大変先駆的であった。種子散布の研究は当時皆無であった。大学院を終えて助手に採用されたが、いわゆる助手らしい雑用などは一切命じられなかった。助教授の菊池多賀夫先生は自分の本当にやりたいと思うことを見つけて存分に追求するよう勧めてくださった。よく山に連れて行ってもらい、植物のこと、山の見方などを教えていただいた。


東北大学の助手時代(34歳, 1984年)


つづく

少年時代

2015-03-01 01:01:03 | 最終講義
 私が生まれたのは昭和24年である。1945年に太平洋戦争で敗戦してわずか4年しか経っていない。国中が貧困であり、進駐軍、引揚者など、現代では聞くこともなくなった言葉が聞かれた。私の両親は大正の生まれであり、お国のためという当時の日本人であれば誰でもが信じていた価値観の中で戦争に巻き込まれた。父は九州の出身で、戦中に満州に渡り、満鉄(満州鉄道)の職員であった。ハルピンというロシア風の街でアジアのためと信じて働いていた。そして女学校を卒業した翌日に満州に行ったという母と出会い、1945年に結婚した。


父孝男と母豊子(1943年)


 その直後に日露不可侵条約を踏みにじったロシア軍の侵攻にあい、「24時間以内にこの建物を立ち去れ」という命令により、満鉄の官舎を出て、しばらくハルピンに留まることになる。約30人の十代の少年の命をあずかり、シベリア抑留の危険をマスターしていたロシア語で回避したと聞いた。そして文字通り命がけの逃避行をして大連までたどり着き、船が九州に近づいたとき、母国の美しい緑を見て全員が大声をあげて泣いたとも聞いた。私と2歳上の姉はそうした両親の戦争体験をおとぎ話のように聞いて育ったのだった。私の心の奥深い部分に大陸に対する憧れが醸成されていったように思う。
 父は写真が好きで、私たちの写真をわりあいよく残してくれている。私が3歳のときにセミを採ろうとする写真や、6歳のときにセミの羽化を覗き込んでいる写真がある。


セミをとる(3歳)


セミの羽化を見る(6歳)


 小学校に上がるとき、知人が昆虫図鑑を贈り物としてくださり、私はそれを繰り返し読んだ。中部地方の山岳の蝶のページが夢に出てきたのを覚えている。母の実家が伯耆大山の山懐にあったので、夏休みはそこで虫採りや魚採りをして遊んだ。遊びに夢中になると人の声が聞こえなくなる子供だった。また同じことをずっと続けるので「根気強い子だ」とよく言われた。


ウサギを飼っていた(8歳)


 昆虫採集は中学生になっても続けていた。目標はただひとつ、1種類でも多くの蝶を採集することだった。そのために蝶の食草は何であるかを覚え、どこにいけばどういう昆虫がいるかを体得していった。


伯耆大山で昆虫採集をする(12歳)


 昆虫標本を作っていたが、ある本に「標本は死体だ。生物学をするなら、生きた昆虫をよく観察しなければいけない」という文章があり、共感した。そしていろいろな蝶の幼虫を飼育した。次第にもっと専門的な図鑑を読むようになっていた。自然に図鑑の記載を憶え、「アゲハチョウ-ミカン、オオムラサキ-エノキ、アサギマダラ-イケマ」というように蝶と食草を諳んじていた。
 アゲハチョウとクロアゲハは色こそ違えよく似ており、食草もミカン科で共通している。同じアゲハでもかなり違うアオスジアゲハはクスノキ科であり、アゲハチョウらしくなく、明らかに違いが大きいウスバシロチョウは食草もムラサキケマンとまったく違う。これはどういうことかを考え、誰かに相談したいと思ったが、そういう相談ができる人はいなかった。


中学生の時に考えた蝶と食草の対応関係のイメージ


 そこで図鑑の著者である九州大学の白水(しろうず)隆先生に手紙を書いた。田舎の中学生の手紙に返事がもらえるかどうかはまったくわからなかった。ところがしばらくすると手紙が届き、読みやすい字で返事が書いてあった。そして蝶と植物の進化のことが書いてあり、「君はおもしろいことに気づいた」と励ましの言葉が書いてあった。私は科学者に憧れのような気持ちを抱いた*。

 絵を描くことが好きだったので、昆虫を飼育してスケッチをした。


スケッチする(5歳)


キアゲハの幼虫のスケッチ(11歳)


ミヤマクワガタのスケッチ(12歳)


 高校生の頃は春休みに海から遡上してくるイトヨ(トゲウオの1種)を観察した。この魚は田んぼの底に穴を掘って巣を作り、中に産卵したあと、オスが鰭で水を流し込んで水の循環をよくする。オス同士が近づくとトゲを開き、体色を赤く変える。私はイトヨを水槽で飼育していたが、水温を測定するために温度計を水槽に入れると、温度計の赤い色に反応してトゲを広げ、体色を赤くするのを観ておもしろいと思った。


トゲウオのスケッチ(15歳)


* 追記:今回、白水先生のことを調べてみたら、1963年にシジミチョウと食草の進化について論文を書いたと書いてあった。私がアゲハチョウ科について質問したのがまさにこの年であった。きっと先生は中学生の質問をうれしく感じられたのだと思う。それにしても奇遇を感じないではいられない。

つづく

ある学生との出会い

2015-03-01 01:01:02 | 最終講義

 麻布大学には2007年から8年間お世話になった。その前の年である2006年に岩波ジュニア新書として「野生動物と共存できるか」という本を書いた。ある高校生が3年生のときに学校の図書館でこの本を読むということがあった。彼女はそれがきっかけになって、野生動物を研究できそうな麻布大学を受験し、入学した。入学して講義を聞いたら、東京大学にいるはずのその著者が講義を始めたので驚いたそうだ。その学生は坂本有加さんといい、3年生になると、私の研究室に入ってきた。当時私は科学研究費を得てモンゴルで調査をしていたが、坂本さんはその調査にも参加してくれた。訪花昆虫の調査をしたとき、私とペアを組んだが、人の縁とは不思議なものだねと話したことだった。


モンゴル草原で坂本有加さんと訪花昆虫の調査をする(2009年)


 坂本さんは卒業研究としてタヌキによる種子散布に取り組んだ。タヌキは初夏と秋に果実をよく食べる。従来、食性研究は動物の種生態の一項目と位置づけられてきた。しかし私たちはタヌキが森林生態系で種子散布という生態学的な役割を果たしていることを示したいと考えた。坂本さんは120個の糞を分析し、2300個ほどの種子を検出した。同時に、タヌキがため糞をするという性質を利用して、ソーセージの中にプラスチックのマーカーを入れてタヌキに食べさせて、種子の移動方向と移動距離を明らかにした。この研究は最近「Zoological Science」に受理された。
 私が麻布大学に来た年に入学した学生の卒業研究が、退官前に学術論文として完成したというのは、私の麻布大学での経験を象徴するようで印象に残っている。

つづく


はじめに

2015-03-01 01:01:01 | 最終講義
 私が初めて大学の先生の最終講義を聞いたのは大学の3年生のときだった。その先生は長身で痩せておられ、やや猫背で直毛。白髪、オールバックで、黒縁のメガネをかけ、いかにも「博士」という雰囲気の人だった。二十歳すぎの私にはその先生はおじいさんに見えた。そして自分の好きな研究をこんなおじいさんになるまでできるとは何とすばらしいことだろうと思った。当時の私にとって研究の時間は無限にあるように思われた。



 前段の2行はよく知られているが、後半が今の私には身に染みて響く。

池のほとりの春の若草は、これから伸びてゆくことを未だにあれこれ夢見ているのに、気がつけば庭先の梧(アオギリ)の葉には秋の風が吹き、葉を落とそうとしている。

 読む側の置かれた状況でこんなにも違って響くものかと思った。

つづく