長いようで短かった私の大学人としての時間も結びに近づいた。今の私の思いを言えば、こんなにもいろいろなことができたとう思いと、これだけしかできなかったかという思いが相半ばしている。
さまざまな動植物を調べてきたが、振り返って思うのは、地球に生を受けたものとして、これら動植物と人間とがよりよい関係を築かなければならないということ、そしてそのために自分の研究が少しでも役に立ちたいという思いである。
これだけしかできなかったという思いはあるが、それはすべて能力が足りなかったからだというほかはない。それでもはっきり言えるのは、与えられた能力の範囲で努力は惜しまなかったということ。そのことに深い満足感がある。
満足感とともにあるのは謝意である。私の両親は、引揚者として、自分たちが生きるのが精一杯であったはずなのに、私の生き物好きを暖かく見守り、大学院に進むまで支えてくれた。

父孝男と母豊子 1952年頃 鳥取県倉吉市にて
私は大学院時代に結婚したが、妻知子は手書きの学位論文を書くのを手伝ってくれた。そのとき以来40年近く、いつも笑顔で家庭を守ってくれ、私を励ましてくれた。

1993年 仙台の自宅にて
野外調査では多くの地元の人に協力いただいた。研究上出会った人々や学生とともに、多くの人に支えてもらうことができた。
ものごとに熱中しすぎて物忘れをしがちな私がかろうじて無事に退官の日を迎えることができたのは、多くの人に支えられてのことだった。一日一日を積み重ねた星霜が経ち、いま階前の梧葉には秋風が吹こうとしている。私はこれらの日々に感謝しながら、ユニフォームを脱ぐことにしよう。
大学を去るとはいえ、自然を観察するということに終わりはない。幸い私の研究には大規模な機器をはいらず、双眼鏡とルーペ、それに好奇心さえあればできることだ。今のところ、目も足腰もまだ大丈夫そうなので、これからも野山に出かけて動植物を観察することを続けたい。そして、自分が住む土地の動植物のことを知ることの歓びを若い人に伝える努力をもう少し続けたいと思っている。
完
・・・・・
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さまざまな動植物を調べてきたが、振り返って思うのは、地球に生を受けたものとして、これら動植物と人間とがよりよい関係を築かなければならないということ、そしてそのために自分の研究が少しでも役に立ちたいという思いである。
これだけしかできなかったという思いはあるが、それはすべて能力が足りなかったからだというほかはない。それでもはっきり言えるのは、与えられた能力の範囲で努力は惜しまなかったということ。そのことに深い満足感がある。
満足感とともにあるのは謝意である。私の両親は、引揚者として、自分たちが生きるのが精一杯であったはずなのに、私の生き物好きを暖かく見守り、大学院に進むまで支えてくれた。

父孝男と母豊子 1952年頃 鳥取県倉吉市にて
私は大学院時代に結婚したが、妻知子は手書きの学位論文を書くのを手伝ってくれた。そのとき以来40年近く、いつも笑顔で家庭を守ってくれ、私を励ましてくれた。

1993年 仙台の自宅にて
野外調査では多くの地元の人に協力いただいた。研究上出会った人々や学生とともに、多くの人に支えてもらうことができた。
ものごとに熱中しすぎて物忘れをしがちな私がかろうじて無事に退官の日を迎えることができたのは、多くの人に支えられてのことだった。一日一日を積み重ねた星霜が経ち、いま階前の梧葉には秋風が吹こうとしている。私はこれらの日々に感謝しながら、ユニフォームを脱ぐことにしよう。
大学を去るとはいえ、自然を観察するということに終わりはない。幸い私の研究には大規模な機器をはいらず、双眼鏡とルーペ、それに好奇心さえあればできることだ。今のところ、目も足腰もまだ大丈夫そうなので、これからも野山に出かけて動植物を観察することを続けたい。そして、自分が住む土地の動植物のことを知ることの歓びを若い人に伝える努力をもう少し続けたいと思っている。
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